太田述正コラム#7043(2014.7.7)
<欧州文明の成立(続)(その9)>(2014.10.22公開)
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<脚注:イギリスにおける「絶対王政」>
日本では、「一般的に「絶対王政期」「絶対王政の時代」とは、・・・<イギリス>のテューダー朝、フランスのブルボン朝、スウェーデンのヴァーサ王朝・プファルツ王朝などが挙げられる。とりわけ、ブルボン朝がその典型例とされ<る。>・・・イギリスにおいては清教徒革命、名誉革命を経た後、国王が権利の章典を承認し立憲君主制に移行したことによって絶対王政の時代は終わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%8E%8B%E6%94%BF
という認識が一般的なようだが、これは、イギリスにおける常識(下掲)とは乖離している。
「スコットランドのジェームズ6世(後にイギリスのジェームズ1世)と彼の息子のスコットランドとイギリスのチャールズ1世は<絶対王政>の原理を輸入しようとした。
チャールズ1世の、監督制の仕組み(Episcopal polity)を<長老制をとる>スコットランド教会(Church of Scotland)に押し付けようとした試みは、カヴェナンター達(Covenanters)<(注8)>による叛乱と主教戦争(Bishops’ Wars)<(注9)>をもたらしたところ、チャールズ1世が欧州諸国に倣った絶対主義政府の樹立を試みているとの恐怖、がイギリス内戦の主要な原因の一つだった。
彼がそんなやり方で統治したのは、イギリス議会を当分解散するとして、1629年から11年間<議会を開催せずして統治した>間<だけ>だったのだが・・。
http://en.wikipedia.org/wiki/Absolutism_(European_history)
(注8)盟約者。「17世紀のスコットランドで長老主義 (Presbyterianism) (コラム#181、392、624、1522、1524、1789、2077、2472、3549、3726、4816、6006、6396、6553、6634)の支持を盟約した人々、あるいは、スコットランドの長老派教会による宗教的な運動」
http://ejje.weblio.jp/content/Covenanter
(注9)「1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、<イギリス内戦>の原因のひとつとなった。・・・
<英>国教会と長老制の<スコットランド教会の>教会政治の違いは、国王を頂点に大主教・主教と続く階層・階級によって統制された国教会に対し、スコットランドの長老制は宣教長老(牧師)と治会長老(信徒の代表)からなる長老を代表とし、全体教会で議決を行うという点にあった。・・・
チャールズ1世が<英>国教会の形式にもとづく祈祷書をスコットランドに強制した<ところ、>・・・スコットランドは・・・猛反発し、・・・盟約を結成して対抗し・・・祈祷書を拒否して監督制を廃止し、・・・反乱を起こした<が、>・・・結局・・・<国王軍が腰砕けになったこともあり、>剣戟を交え<ることなく>和約が締結された。・・・
和約が締結されたものの、両者、特に事実上敗者の国王は監督制について譲らず、スコットランド盟約派も拒否の姿勢を続けた。国王は実力行使を決意し、11年ぶりに議会を召集した。この議会は短期議会といわれるように、何ももたらさず3週間で解散し、チャールズはアイルランド議会の援助で軍を出した。・・・<しかし、>戦いは盟約軍の圧勝に終わり、チャールズは自ら和睦を申し出た。<そして>条約が結ばれ、イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の割譲、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を支払うという屈辱をみた。
<結局、>チャールズには駐留軍維持費の支払いのため、議会(長期議会)を開かざるをえなくなっ・・・た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%95%99%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒ここには、テューダー朝など全く登場せず、スチュアート朝への言及があるだけだ。
しかも、スチュアート朝が絶対王政だったとは記述されていない。
私は、かねてより、スコットランドは欧州文明に属すると指摘してきた。
より正確には、プロト欧州文明/欧州文明に属すると言うべきか。
そのことは、スコットランドで、イギリスでは起きなかったところの、宗教改革が起きた・・プロテスタント中のカルヴァン派たる長老教会がカトリック教会に取って代わった・・点に端的に現れている。
そんな長老教会の英国教化を図ったジェームズ1世/チャールズ1世を、どうして、アングロサクソン文明の旗手たる英議会、すなわち、アングロサクソン文明のイギリスが援助しなかったのか?
それは、イギリスが英西戦争を、欧州文明内のプロテスタントと提携しながら戦ったという経緯があったこともあるが、英議会(の多数派)が、チャールズの意図は、スコットランドの長老教会を英国教化した上で、英国教全体をカトリック化させる、つまりは、イギリスをプロト欧州文明/欧州文明に再び従属させるところにある、と(正しく)見抜いていたからだ、と私は見ている。
さて、ジェームズ1世とチャールズ1世がイギリス(及びスコットランド、更にはアイルランド)において、フランスばりの絶対王政の樹立を図っていたことは事実・・それもまた、彼らが、欧州文明のシンパであったことの証だ。・・・だが、11年間、議会を開催しなかったことをもって絶対王政が樹立されたということにはならない。
なぜなら、この期間中に、彼は、法律の改廃ができず、新たな税金等を課することもできず、司法に介入することだってできなかったのだから。
結局、イギリスでは、絶対王政は、「スコットランド(欧州)人」たるジェームズ1世とチャールズ1世の頭の中だけに留まったと言うべきだろう。
しかも、頭の中だけに留まった絶対王政へのいわば憧れだけで、それを咎められ、チャールズ1世は、英議会、つまりはイギリスによって断罪され、処刑されたというわけだ。
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欧州文明の過渡期において、もう一つ、特筆すべきことがあります。
欧州大陸の知識層が、争ってイギリス「思想」の(超克を目指した)翻案・紹介を図ったことです。
これが、欧州大陸における啓蒙主義(Enlightenment)です。
これについては、既に、累次取り上げてきているので説明は省きます。
面白いのは、啓蒙主義者を標榜する国王による絶対王政まで、欧州大陸で出現したことです。
「ヴォルテール(Voltaire)<は、>・・・啓蒙君主こそ、社会が前進するための唯一の現実的方法であると考えた。
台詞がエマニュエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder)によって書かれたところの、モーツアルト(Mozart)の『魔笛(Magic Flute)』<(コラム#5582)>は、啓蒙絶対主義の擁護であると見ることもできる。
啓蒙絶対主義者達は、君主権(royal power)は、神聖なる権利に由来するのではなく、統治者が賢明なる治世を行う義務を負った社会契約に由来する、と主張した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Enlightened_absolutism
ところが、啓蒙君主の中から、啓蒙主義を口先だけに留めずに実践に移した者は一人も現れませんでした。
そうしているうちにも、欧州文明を代表する形で絶対王政のフランスがイギリスと戦った、第一次アングロサクソン文明対欧州文明戦争は、欧州文明側の惨めな敗北で終わってしまいます。
そこで、業を煮やし、焦燥感に駆られたところの、(啓蒙絶対主義者を含む)啓蒙主義者達が扇動する形で、フランス革命を嚆矢とする一連の社会革命が欧州大陸で生起することとなり、その結果、欧州文明は過渡期を脱し、アングロサクソン文明を「超克」した、民主主義独裁の諸形態を生み出し、欧州大陸やこの諸形態を継受したアジア等の人々がその下で呻吟することになり、天文学的な人命が失われることになるのです。
(続く)
欧州文明の成立(続)(その9)
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