太田述正コラム#7059(2014.7.15)
<米独立革命の起源(その3)>(2014.10.30公開)
「この闘争(struggle)の兆候は、ジェームズタウンの創建と独立宣言の採択の間の169年にわたって存続した。・・・
我々は、イギリスからの独立は不可避であったこと、かつ、それは課税の問題の提示によってというよりは、英領北米諸植民地(English Colonies of North America)に入植した人々の本性(nature)と関わっていたこと、を<この本を通じて>学ぶ。
<もっとも、>北米人達は、<単に、>自分達の諸生活に対する<自分達自身による>コントロールを欲したのであり、独立への道とともに、<北米人達の>政治的指導者達は、一貫して(persistently)、イギリスの市民達として扱われることへの欲求を表明し続けた。
彼らは、イギリスのコモンローとイギリスの憲法によって提供された諸保護を欲した。
<しかし、>彼らは主権を<も>欲したのだ。
その目的を達成する唯一の方法は独立だったということだ。」(D)
(2)各論
「北米人達は、我々の独立を誇りに思っている。
我々が寿ぐのは、単にその日や独立宣言だけではなく、我々が慈しむ(cherish)中核的な文化的特色(trait)なのだ。・・・
我々は、要するに、相互に独立的であって、<現在に至ってもなお、>我々の多くが、我々が、市民達として、諸コミュニティとして、連邦政府、国連、そして、コミュニティをより拡大的に(expansively)定義する全ての諸努力のどれより、いや全てから、十分独立的でないと信じているのだ。
米国は、帝国的諸大志を抱いている一方で、独立的文化が、経済的かつ環境的に統合されたところの、一つの国家、そして一つの世界の市民達として我々<米国人>が、<その国家や世界に>全面的に参加することには抵抗するのだ。・・・
「仮にあなたが北米人に対して、君の主人は誰かいと尋ねれば、彼は、君に対して、誰もいないさ、総督(governor)も違う、ご主人はキリストのみだ、と伝えることだろう」と、1774年に<英下院>議員のリチャード・サットン(Richard Sutton)<(注7)>は、他の者達が1世紀にわたって言明してきたように、言明(observe)したものだ。・・・
(注7)1733~1802年。ケンブリッジ大卒、ミドル・テムプル、インナー・テムプル法学院修了。下院議員。大蔵卿(の一人)等を歴任。
http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/sutton-richard-1733-1802
この独立的な精神は、150年間にわたって、大英帝国とその北米の植民者達との間における中心的緊張<をもたらしたの>であり、1775年の米独立戦争とその1年後の独立宣言に導いたところの紛争を規定(define)した。・・・
植民者達の多くは、宗教的、経済的、個人的、コミュニティ的(communal)、そして政治的な、欧州からの独立を探索して大西洋を渡り、奴隷達の背中群、及び、その独立性を彼らが盗んだところのインディアン達の土地、の上に、自分達の新しい諸生活を構築した。
⇒裸の個人主義者達である英領北米植民地人達は、彼らと競い、戦う力の不十分な、或いは戦う力のないところの、インディアンたる弱者からの土地の強奪や、黒人たる弱者の奴隷化を当然視した、ということです。(太田)
植民者達は自分達の独立性を自分達自身誇ったが、それは、自分達が、勇敢で、自給自足的で、家族、教区、村、そして神の高次の法、に献身したという意味においてだった。
彼らは、遠方の諸関係よりも地元の諸関係の方に自分達自身をコミットさせ、自分達自身の植民地諸政府・・それらを彼らの多くは遠方で非代表的であると考えていた・・に対してさえ疑惑の目を投げかけた。・・・
権威の場<であるイギリス本国>からかくも遠くに生きていたことが、植民者達を、時間が経過するにつれて、彼らないしは彼らの祖先達が大西洋を渡った時よりも、一層独立的にさえして行った。
1750年より前の、英国の帝国諸省による動揺(distraction)と放置(neglect)が、この<植民地人の>独立性を涵養したところ、大西洋の両側の諸習慣(habits)が、<北米人をして、>この独立性を<、その>塹壕に入れさせ<、より強固なものにさせ>ることとなった。・・・
オーストリア継承戦争の最中の1746年に、イギリスがカナダをフランスから奪取した時、ベッドフォード公爵は、これを返還しないならば、国境線<の向こう側>に強力な敵がいなくなり、「これらの諸州において、母国に対する独立…」<志向>が惹起されることを恐れた。そして、その2年後に戦争が終わると、<実際、カナダはフランスに>返還された。<(この段落は、コラム#7039から採録(太田))>
同様の諸理由から、大英帝国は、植民者達の西方への行進を緩慢化させようと、1763年に<インディアン地区との境界線たる>宣言線(Proclamation Line)等の諸規制を行ったが、うまくいかなかった。」(E)
⇒イギリス本国は、本国が用済みになったら英領北米植民地人が本国を捨てるであろうことを危惧していたところ、その危惧が現実化することになったわけです。
また、イギリス本国は、英領北米植民地人によるインディアンからの土地の収奪を抑制しようとしてこれにも失敗したわけです。(太田)
(続く)
米独立革命の起源(その3)
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