太田述正コラム#7061(2014.7.16)
<米独立革命の起源(その4)>(2014.10.31公開)
 「ウィリアム・ピット(William Pitt)<(注8)(コラム#459、594、2138、3561、4293、6180、7039)>首相の、北米及び全球的に7年戦争を戦うとの決定、及び、彼の1763年の平和協定での<占領した>カナダを<フランスに>返還しないとの決定・・それは、その15年前のオーストリア継承戦争後の決定を覆した・・が<米独立革命の>舞台の主役となった可能性がある。」(F)
 (注8)通称大ピット。William Pitt, 1st Earl of Chatham(1708~78年。首相:1766~68年)。オックスフォード大を病気のために中退。欧州のグラントツァーに出かけ、蘭ユトレヒト大にも在籍。陸軍に入り将校。その後、下院議員。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt,_1st_Earl_of_Chatham
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88_%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%A0%E4%BC%AF%E7%88%B5%29 (←簡単であることは仕方ないとして、不正確。)
 「英国議会が1764年に砂糖法(Sugar Act)<(注9)(コラム#510、896、4959、6176)>を可決した時、同議会は、それを強力な法的諸根拠に立脚して行った。
 (注9)「法の序文には、「この王国の歳入を改善するには新しい規定と規制を確立すべきである … また … 歳入を高めるべく努めることは正当であり不可欠である … 上述のものを防衛し、保護し、安全を確保する費用を負担するために」と述べていた。砂糖法の制定以前には糖蜜法(1733年成立)があり、これは英領でない植民地から輸入される糖蜜に1ガロン当たり6ペンスを課すことによって英領西インド諸島産の糖蜜を保護するためものだったが、植民地の課税逃れのために実際に徴収されることはなかった。砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する一方、徴税の強制力を強めたものである。また、課税対象もワイン、コーヒー、衣類などに広げられた。・・・フレンチ・インディアン戦争<(≒7年戦争)>(1754年~1763年)で負った莫大な負債を返済するための資金集めという意図が強かった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96%E6%B3%95
 政府というものは、その市民達から収入を挙げる権利を持っているはずだ、と。
 しかし、植民者達は、諸物事を違った観点から見ていた。
 150年を超える期間にわたって、諸植民地は、「遠くから、彼らに課税したり植民地内諸事項を統治することの不可能性により、議会主権の例外を経験していた」のだ。
 砂糖法に応えて、ボストンの弁護士のジェームズ・オーティス(James Otis)<(注10)>は、「自然の状態に照らし(in a state of nature)、誰も、私の同意なくして私の財産を奪うことはできない。もし誰かがそんなことをすれば、彼は私の自由を剥奪し、私を奴隷にする、ということだ」と主張するために名乗り出た。
 (注10)1725~83年。ハーヴァード大卒。「マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家、<同植民地議会議員、>政治活動家。」1771年後半から1783年の(落雷による)死に至るまで、精神を病んで引退生活を送った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9
 ロック(Locke)の主権の定義を大いに借用しつつ、オーティスは、事実上(essenntially)、ジェファーソンによる主張を10年も前に先取りしていたと言えよう。」(B)
 
 「戦争は、米独立革命の一部ではなかった。
 それは、単に米独立革命の効果であり帰結であるに過ぎなかった。
 革命は人々の頭の中に蟠っていたところ、これは、1775年にレキシントン(Lexinton)で最初の血の一滴が垂らされる<(注11)(コラム#510、616、1756、3654)>までの15年間の1760年<(注12)>から1776年にわたってもたら(effect)されたものだった。」(D)
 (注11)レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)は、「1775年の4月19日に起こった、<米>独立戦争が始まる契機となった・・・戦闘である。
 <英>軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあった<北米>植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施した。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の・・・戦闘が行われ、植民地軍は<英>軍を撃破した。」植民地側は、本国で本国からのマサチューセッツ総督宛ての秘密指令も事前に入手していたし、同総督から英軍への具体的指示も事前に入手していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 (←英語ウィキペディアのできの悪い直訳)
 なお、1776年というのは、言わずと知れた、その1年後の独立宣言(1776年7月4日)の年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80
 (注12)7年戦争より1年前の1755年に始まっていた、フランチ・インディアン戦争は、1760年に、仏領北米植民地(ヌーヴェルフランス)の中心であるモントリオールを英軍が占領することで、事実上終焉を迎えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
 「米独立革命での人口当たり死者数は、その後のいかなる米国の戦争で蒙ったものより大きかった。
 ただし、例外めいたものがあるとすれば、それは、南北戦争で南部が北部に対して戦った際に南部が蒙った死者数だ。」(F) 
3 終わりに
 英領北米植民地人がどれほど、とんでもなく、まつろわぬ民であったかを、本シリーズで改めて確認できた、と思います。
(完)