太田述正コラム#7088(2014.7.30)
<ロシア亜文明について(その2)>(2014.11.14公開)
それはどのような経過を辿り、どのような結果をもたらしたのでしょうか。
「<13世紀から15世紀にかけての>モンゴルないしタタール(Tatar)の「軛(yoke)」<(注1)という>・・・言葉は、ひどい抑圧を示唆する。
(注1)「北東<ロシア>・・・は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴル<・・キプチャク汗国・・>の支配下に入った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
しかし、実際には、モンゴルからのこれらの遊牧民たる侵攻者達は残酷で抑圧的な厳しい主人(taskmaster)達ではなかった。
そもそも、彼らは、この国に入植したことがなく、住民達と直接接触することは殆んどなかった。
ティンギス・ハーンの子供達や孫達への説諭に則り、彼らは遊牧的生活様式を維持したので、臣民たる諸人種、農業者達、そして町々の住民達は、自分達の日常の諸本業(avocations)において煩わされることはなかった。
14世紀及び15世紀におけるタタール諸汗国(khanates)<(注2)>の勃興に伴い、オスマントルコに売り飛ばすためのスラヴの人々に対する奴隷狩り諸襲撃が顕著となって初めて<煩わされることになったのだ。>
(注2)「キプチャク<汗>国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク<汗>国は再編と解体が進んでクリミア半島にクリミア<汗>国、ヴォルガ川中流域にカザン<汗>国、西シベリアにシビル<汗>国などが生まれ<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB 上掲
これらの諸襲撃は、<ロシア>の人的経済的諸資源を甚だしく枯渇させ、かつ、モスクワの約100マイル南から黒海の間に広がるステップと森林/ステップ地域・・・への入植を概ね妨げた・・・。・・・
<襲撃と襲撃の>間の期間には、人々は、一定額の貢納を支払わなければならなかった。
最初のうちは、大雑把だが効果的なやり方でタタールの税徴収者達がそれを集めた。・・・
しかし、最終的に、それは土着の諸公達に委嘱され、人々は、タタールの役人達に直接接触させられることはなくなった。・・・
・・・ロシアの人口は、モンゴル侵攻の前の750万人から、侵攻以降は700万人に減った<まま推移した>という推計をする<学者もいる。>
キエフ(Kiev)のような諸中心地は初期の攻撃による荒廃からの再建と回復に何世紀もかかった。・・・
⇒タタールの軛が、ロシア人の心中にどれほどのトラウマとなって残ったかは想像に難くありません。(太田)
モスクワ公国がやがてロシアの北部と東部を支配することになったのは、その大きな部分をモンゴル人に負っている。
1327年に・・・モンゴルに対する<ロシア諸公の>叛乱が起こった時、・・・モスクワ公のイヴァン1世(Ivan I)<(注3)>は、モンゴル側に立って<叛乱>を粉砕し<た。>
(注3)?~1340年。「1327年にウズベク<汗>は半ば廃れていた代官<による>・・・税の徴収制度・・・の復興を目指し、トヴェリに息子チョル・・・を派遣した。その圧政に耐えきれず、・・・トヴェリ公国でタタールの圧制に対する民衆の暴動が起き、チョルは民衆によって殺害されてしまう。このとき、モスクワ公であったイヴァン・・・はウズベクの許可を得て・・・タタール軍とともにトヴェリ公国へ進撃し、トヴェリを破壊。大公アレクサンドルは・・・逃亡した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B31%E4%B8%96
このようにして、彼は競争相手を除去し、ロシア正教の本部をモスクワに移すことを認め、モンゴルによってモスクワ大公の称号を付与された。
こうして、モスクワ大公は、モンゴル諸宗主(overlords)とロシア人達との間の首席仲介者となり、ロシア人達は、モスクワ諸大公に付加的諸税(dividents)を支払わされることになった。
モンゴル人達は、<引き続き、>しばしばロシアの他の諸地域は襲撃したが、彼らの首席協力者<たるモスクワ大公国>によって統制されている諸地域には手を出さない傾向があった。
おかげで、<ロシアの>貴族達や彼らの召使達は、相対的に安全で平和なモスクワ大公国の諸地域に惹き付けられて入植するようになった。・・・
<つまり、>モンゴルによるキエフ公国の破壊なかりせば、ロシア皇帝国(Tsardom of Russia)、及びその後継たるロシア帝国の勃興はなかったということだ。・・・
<このような、モンゴルとモスクワ大公国の「良好」な関係からであろう、>17世紀の・・・調査で、ロシア貴族諸家の15%超はタタールないし東洋に起源を持つ<ことが明らかになっている>。・・・
歴史学者達は、モスクワ公国の発展にモンゴル体制が重要な役割を果たしたとしている。
例えば、モンゴル占領下で、モスクワ公国は、そのメストニチェスツヴォ階統制(mestnichestvo hierarchy)を発展させた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_invasion_of_Rus%27
⇒さて、この最後の点については、私は次のように考えています。
1480年にモスクワ大公のイヴァン3世(Ivan III)は、タタールの軛から逃れることに成功しており、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ivan_III
他方、「メストニチェスツヴォ・・・は、15世紀から17世紀にかけてのロシアの封建的階統制だった・・・。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Mestnichestvo
ということは、タタールに対して面従腹背であったモスクワ大公が、欧州の恒常的戦争体制である封建制を継受することによって、自らの統制する軍事力を即応態勢に置いたおかげでタタールの軛を恒久的に脱することに成功した、と見るべきだということです。
このことは、17世紀に入って(?)中央官僚制が整備された上で、1682年にフョードル3世(Feodor III)(注4)がメストニチェスツヴォ制を廃止したこと(ウィキペディア上掲)が傍証になると私は思います。
というのは、これもまた、欧州における絶対王政の確立を継受した、と見るのが自然だからです。(太田)
(注4)1661~82年。ロシア皇帝:在位:1676~82年。「軍隊改革を断行、軍の指揮系統を家門で決める門地制を廃止して、能力本位の軍隊へと移行させる。・・・継続中の露土戦争<を>終結<させ>、1681年のバフチサライ条約でロシア側のキエフ領有<を>承認さ<せ>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB3%E4%B8%96
(続く)
ロシア亜文明について(その2)
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