太田述正コラム#7110(2014.8.10)
<英米性革命(その3)>(2014.11.25公開)
(2)本論
「騒々しい経口避妊薬後にしてフェミニスト前の時代は、個々の自由の闘士達の間でさえ、衝突と矛盾する諸力に満ちていた。
屹立する(lofty)両刀使いのゴア・ヴィダルは、前衛ヌード劇場レヴューの『オー! カルカッタ』のための素描を提供するようケネス・タイナンから求められたことへの返答として、悪名高い性転換者たるヒロインが登場する、彼の1968年のベストセラーの風刺小説である、『マイラ・ブレッキンリッジ』をあっという間に作った、と著者は指摘する。
(<この小説は、>この種のものとしては最初のものであり、サミュエル・ベケット(Samuel Beckett)<(コラム##5576)>とジョン・レノン(John Lennon)<(注18)>についての素描を含み、かくして、ポルノを芸術としてより受け入れられやすい証紙(stamp)付のものにした。)
(注18)1940~80年。大学に行っていない。父親は商戦の乗組員。イギリスのリヴァプールで生まれる。「イギリスのミュージシャン。ロックバンド・ザ・ビートルズのメンバーで、ヴォーカル・ギター・作詞作曲を主に担当した。・・・出生名はジョン・ウィンストン・レノン (John Winston Lennon) であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。・・・1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。・・・1966年3月4日・・・「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。・・・」<と発言>。この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、・・・<米国では、>ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日・・・にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、ヴァチカンも彼の謝罪を受け入れた。・・・<その11月、>美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。・・・<1968年、最初の妻の>シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3
⇒脱線ですが、レノンの生涯を振り返ると、イギリスが本質的には非キリスト教社会であるのに対して米国がキリスト教社会であって、欧州(ヴァチカン)に近い存在であること、かつまた、イギリスと日本の人間主義的な繋がり、を改めて痛感させられます。(太田)
しかし、性転換者的にして物神崇拝者(fetishist)たるタイナンは、G・B・ショー(George Bernard Shaw)<(注19)(コラム#1467、2365、2519、2844、5229、6600)>以来のイギリスの最大の劇評家でもあったが、同性愛に対する手続き差し止め通告(caveat)を発出した。
(注19)1856~1950年。スコットランド貴族の清教徒の家系にアイルランドのダブリンで生まれる。大学に行っていない。「イギリスで19-20世紀に活躍した・・・劇作家、劇評家、音楽評論家、政治家、教育家。・・・1925年にはノーベル文学賞を受賞した。・・・フェビアン協会に属する社会主義者であり、社会主義運動に深く関わる。・・・ソビエト連邦<を>・・・「失業も階級もない理想の国家」と評したが、ショーとウェッブ夫妻のソビエト支持は保守層から非難を受けた。・・・ショーはシェイクスピアを超えるような劇を書きたいとも熱望していた。『シーザーとクレオパトラ』は、『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いたものだが、『ピグマリオン』は『じゃじゃ馬ならし』に対抗したものではないかという説もある。・・・それまで悲劇のヒロインとして描かれてきたジャンヌ・ダルクを、社会と葛藤する一人の人間として描<いた>・・・『聖女ジョウン』(Saint Joan)(1923年<)、>・・・〈モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』<(コラム#5580、6968)>をモチーフにして書いた・・・『人と超人』〉」(Man and superman)(1903、1905年)も有名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC
〈〉内は間違い。《ドンファンをテーマにした劇を書いてくれと頼まれ・・ニーチェ流の超人(Ubermensch=superman)が女性達の無意識的な優秀な男性選択を通じて生まれ、この超人が統治者となることによって階層間格差問題等が解決される、というモチーフで書いた・・・『人と超人』》とでもすべきだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Man_and_Superman
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Bernard_Shaw#Religion
そもそも、モーツアルトの『ドン・ジョヴァンニ』・・スペイン語ではもちろんドン・ファンですが・・は、反スターリン主義/反ファシズムの先取り的含意がある(コラム#5580)ことを思い出して欲しい。
⇒再度脱線ですが、欧州人たるスコッチ・アイリッシュのショーがスターリン主義に傾倒するのは実に自然なことである、いや、それどころか、欧州人たるショーは自らスターリン主義に極似した思想に到達した、と言っても過言ではありません。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Bernard_Shaw#Religion 上掲
では、同じくフェビアン協会の重鎮であったところの、イギリス人たるウェッブ夫妻のスターリン主義かぶれをどう説明するか。
ロンドン生まれの夫、シドニー・ウェッブ(Sidney Webb。1859~1947年。ロンドン大学で法律を学ぶ。植民地相等を歴任)は、イギリス人の人間主義的要素が肥大した人物であったことから、現実のスターリン主義のソ連を人間主義的偏光レンズを通じて観察した結果、理想視してしまったのであろう、と私は想像しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sidney_Webb,_1st_Baron_Passfield
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%96 (←出身大学の記述が不正確。)
グロースター州生まれの妻、ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb。1858~1943年。大学に行っていない。ネヴィル・チェンバレン(首相)の父親(当時閣僚)と交際経験あり)は、市場制の下での生協群の連合体からなる社会を構想したものの、やがて、ソ連型の計画経済を理想視するようになったのですが、
http://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Webb
これは、夫の影響を受けたものである、というのが私の推測です。(太田)
(続く)
英米性革命(その3)
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