太田述正コラム#7148(2014.8.29)
<現代哲学におけるアングロサクソンと欧州(その3)>(2014.12.14公開)
(ラッセルの、存在しないものについての明確な(definite)諸記述(descriptions)、例えば「フランスの現在の国王」についての分析のように、)鍵となる諸言葉(terms)、諸概念ないし諸命題を論理的に分析することによって、哲学的諸問題は解決(soleved)(ないし解消(dissolved))できるというのがその基本的観念だった。
何年にもわたって、それまでの哲学的思想における諸混乱を解決することに全て向けられたところの、論理的、言語学的、かつ概念的分析の諸形態が存在し、それらが分析哲学の諸事例として提示された。
やがて、何人かの哲学者達、とりわけクワイン(Quine)<(注9)>が、明確な哲学的手法としての、「分析(analysis)」なる観念そのものに疑問を投げかけた。
(注9)ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (Willard van Orman Quine。1908~2000年)、「20世紀<米国>を代表する哲学者・論理学者のひとり。・・・オバーリン大学で数学と哲学で学士号を取得し、・・・ハーバード大学で哲学の博士号を授けた。・・・自然科学の方法とツールを用いて、知識と意味についての主要な質問のすべてに答えようと<し、>・・・自然科学に先立ってその理論的立脚点となり科学を正当化する「第一の学としての哲学」なるものがあるべきだという考えを拒絶<した>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3
しかし、明晰性(clarity)、正確性(precision)、そして論理的厳密性(logical rigor)という諸目標は残り、自分自身を分析的と呼び、英語圏の諸国で支配的であるところの、哲学の型(type)の諸標準を定義することが続けられた。
分析哲学が出現しつつあったのとほぼ同じ時期に、エトムント・フッサール(Edmund Husserl)<(注10)(コラム#2802、4810、6031)> が、哲学への彼の「現象学的(phenomenological)」アプローチを開発していた。
(注10)エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl。1859~1938年)。「オーストリアの<ユダヤ人・・但し、ルター派に改宗・・たる>哲学者、数学者である。・・・ウィーン大学で<学び、>・・・ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
「フッサールの<場合、>活動時期によって<現象学の>概念は変遷している」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
彼もまた、高諸水準の明晰性と正確性を強調し、フレーゲのような分析哲学者達との間で実りある諸関わり(engagements)を持った。
しかし、フッサールは、諸概念や言語の論理的分析よりも、我々の直接的(immediate)経験(現象(the phenomena))について、厳密な記述をすることを追求した。
彼は、彼の現象学(phenomenology)<(注11)>を、あらゆる概念的ないし言語学的分析の諸真実がその上に立脚すべき知識の根本的レベルにおいて機能している(operating)と見たのだ。
(注11)「「解釈学」と共に現代ドイツ哲学の二大潮流を形成し、ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・デリダらに批判的に継承された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6 上掲
『存在と時間(Being and Time)』の中で、フッサールの生徒のハイデッガー(Heidegger)<(注12)>は、現象学をして、「自由、不安(anguish)、死」に関する「実存的(existential)」諸問題に目を向けさせた。
(注12)マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger。1889~1976年)、「ドイツの哲学者。・・・フッサールの現象学の他、・・・カントから・・・ヘーゲルへと至るドイツ観念論、そして・・・キェルケゴールや・・・ニーチェらの実存主義に強い影響を受け、独自の哲学理論を発展させた。実存主義哲学における重要な思想家とされるだけでなく、20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。・・・フライブルク大学で学び、1909年にギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。心臓の病気により修道の道を断念した後は、・・・哲学に専攻を変更し、数学、歴史学、自然科学を共に学ぶ。・・・
1923年から28年の間、マールブルク大学の教壇に立った。1924年に<ユダヤ人の>ハンナ・アーレントが同大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まる。1927年に未完の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みた。・・・
ハイデッガーとナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の関わりは政権獲得以前にさかのぼる。・・・ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年・・・ナチス党に入党し・・・<自分が学長をしていたフライブルグ>大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた。・・・
サルトルによってハイデッガーの哲学は実存主義であるとされた。しかし、・・・ハイデッガー自身は、前期・後期を通じて一貫して実存哲学者とか実存主義者とよばれるのを拒否している」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
その後、フッサールとハイデッガーの影響を受けたフランスの思想家達、とりわけ、サルトル(Sartre)<(注13)>とメルロー=ポンティ(Merleau-Ponty)<(注14)>は、実存主義に立脚した現象学の彼ら自身の諸ヴァージョンを発展させた。
(注13)ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre。1905~80年)。「フランスの哲学者、小説家、劇作家。・・・母アン・マリ-・シュヴァイツァー(旧姓)と・・・ノーベル賞受賞者である・・・アルベルト・シュバイツァーはいとこであった。・・・高等師範学校(Ecole Normale Superieure)<に学ぶ。>・・・1928年にアグレガシオン(1級教員資格)(哲学)試験に落第<した>・・・が、翌年首席で合格した。・・・このころ、同試験の第2位(哲学)で生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合<う。>・・・1933年から1934年にかけて、ベルリンに留学して・・・フッサールから・・・現象学を学ぶ。・・・徐々にサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。・・・やがてソ連への擁護姿勢を改め、反スターリン主義の毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路線を展開していく。・・・1964年にはノーベル文学賞に選ばれたが、・・・これを辞退。・・・
<彼は、>個人の意識の縦の方向に関わるものとして精神分析学の成果を、また、社会的な横の総合に関わるものとしてアメリカ社会学の成果を、マルクス主義の中に「方法」として取り入れることを主張した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB
(注14)モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty。1908~61年)。フランスの現象学哲学者。」高等師範学校で学ぶ。ソ連を批判するに至り、サルトルと対立。
http://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Merleau-Ponty
(注15)「普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想である。・・・
第一次世界大戦<の結果、>・・・国土が直接、戦場となった独仏、わけても敗戦国としての重い負債を背負わされたドイツ<の知識人は、>・・・キリスト教の精神的伝統を進歩主義によって破棄した後の、進歩主義の無残な残骸を前に途方にくれることとな<り、>・・・神の死(「神は死んだ」)を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者として、1930年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーやカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られ<た。>・・・
第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束)の思想に見られるように社会参加色が強く、1960年代の学生運動の思想的バックボーンとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9
→第一次世界大戦後のドイツの実存主義は、要するに(ハイデッガーの経歴が如実に示しているように、カトリシズム/プロテスタンティズムの変形物たる)ファシズムの哲学であり、第二次世界大戦後のフランスの実存主義は、スターリン主義のフロント哲学である、と私は単純に考えています。
さしずめ、メルロー=ポンティは、後者の転向者といったところでしょうか。(太田)
(続く)
現代哲学におけるアングロサクソンと欧州(その3)
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