太田述正コラム#0276(2004.3.2)
<縄文モードの日本>
1 ユニークな現代日本人
(1) 暴力
日本における殺人発生率は、最も多い南アフリカやコロンビアに比べて100分の1以下、米国に比べて10分の1以下であり、統計が得られる諸国の中で最も低く、殺人者出現率も最低レベルです。
また日本では、激情にかられがちであるはずの若者の殺人者出現率の山がなくなってしまっており、このような国は世界広しと言えども日本だけです。
1950年代末までは殺人発生率も年齢別殺人者出現率も「グローバルスタンダード」と大きくは乖離していなかった日本だったのですが、その後、急速に日本人、就中若者が人を殺さなくなり、現在に至っているわけです。
(以上、朝日新聞2003.4.4夕刊、4.5夕刊:「日本の若者は殺さない」上、下、及びhttp://profiler.hp.infoseek.co.jp/crime_international.htm(2003年4月11日アクセス)による。)
しかし、他人を殺さないかわりに、日本人は「精力的」に自分自身を殺しています。
日本人の自殺者数は毎年4万人を超えており、自殺率は世界最高と推計されているのです(サンデー毎日2002.10.6(http://www002.upp.so-net.ne.jp/HATTORI-n/148.htm(2003年4月11日アクセス)より孫引き))。
具体的な数字をお示しすると、人口10万人比で日本における殺人発生数はわずか0.62人(1994年)であるのに対し、自殺者数は何と25人超(2001年)にのぼっています(上掲サイト)。
(2) 性
日本人のセックスの回数は、一人当たり年間42回と世界最低に近いといいます(http://www.durex.com/uk/(http://www009.upp.so-net.ne.jp/mariko-m/fem-news.html(3月2日アクセス)より孫引き。ちなみに、世界の平均は127回))。
(これは、年齢分布による補正をしていないデータによる比較ですが、日本の年齢階層別のデータを見ると、30台から50台まで、セックス回数は殆ど変わらない(http://zoo.millto.net/~gamera/hitori2.htm#34。3月2日アクセス)ので、そこまで厳密に考える必要はなさそうです。)
また、強姦発生件数(1996年の件数)は日本での発生件数を1とすると、米国は29、韓国は9.3、台湾は3.5、ニュージーランドは6.3であり、人口を考慮すると、米国は日本の10倍以上、ニュージーランドは百数十倍にもなる勘定です。
警察への届出率が国によって違うとしても、大数的に言えば、日本における強姦発生率は各国に比べて顕著に低いと言っていいでしょう。
(以上、瀬地山角東京大学大学院総合文化研究科助教授の論考(http://masa-888.hp.infoseek.co.jp/scrap8.html(3月2日アクセス))による。)
2 その原因
(1) 日本人の中性化
日米中韓4か国の高校生を対象に行ったアンケート調査によれば、「女は女らしくすべきだ」との設問で、肯定した人が日本は28.4%しかいなかったが、米国は58.0%、中国は71.6%、韓国は47.7%%、「男は男らしく」も、日本で肯定したのは43.4%(米63.5%、中81.1%、韓54.9%)で、4か国で唯一半数を割り込んだといいます(http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040217it01.htm(2月17日アクセス)。ちなみに、「結婚前は純潔を守るべき」との設問に対する肯定も、日本は33.3%%(米52.0%、中75.0%、韓73.8%)と著しく低かった。)
また、日本は事故死率の男女差も小さいといいます。
つまりは、日本人、就中若者は中性化し、男性も「男らしさが減り、危険に近づかなくなっている」のです。
(以上、長谷川寿一東大教授の言(朝日前掲)による。)
このように、日本人、就中若者の性的・暴力エネルギーは低下しているため、日本の殺人発生率や強姦発生率が低いのでしょう。自殺発生率が高いのも女々しい男性が増えたからだということでしょう。
してみると、日本で、「1970年以降・・他国に比べ、性表現や性行動に対する規制が緩やかになりつつある」(瀬地山前掲)ことや、世界で最も過激な暴力映画や(暴力映画とも言える)ホラー映画がつくられている(http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3517957.stm(2月26日アクセス)。ただし、世界の映画界で高く評価されている)のは、日本人がよほど強い刺激を受けないと性的・暴力エネルギーが掻き立てられなくなっているからだということになりそうです。
それでは、一体どうして日本人が中性化したのでしょうか。
(2) 吉田ドクトリン
米カリフォルニア大学サンタクルズ校のデーン・アーチャー教授は、自らも参加した、110カ国の70年間にわたる(戦争の前後5年間の)データを用いた共同研究の結論は、戦争に参加した国の殺人者率は上がる、というものだったとし、日本の殺人者率の低さは反戦・平和主義が極めて長い間続いてきたためではないか、と語っています(朝日前掲)。
これは、戦後日本が「堅持」してきた国家戦略たる吉田ドクトリン(拙著「防衛庁再生宣言」のほか、コラム#28、30、32、38、57、72、121、124、133、154、155、159、160、185、196、199、226、229、245、246、248、249、250参照。改めて、私のコラムは、大部分が吉田ドクトリン批判であることを「発見」した)が日本人を中性化した、と言い換えてもいいでしょう。
しかし、それではどうして吉田ドクトリンがかくも長期間にわたって「堅持」されてきたのでしょうか。
(3) 縄文モードの日本
究極の原因は、日本が先の大戦以前から縄文モードに入っているからだ、というのが私の考えです。
縄文モードとは何かについて詳しい説明は省きます(コラム#116、#154、#159、及び#226等を参照)が、縄文、平安、江戸の各時代が縄文モード、それ以外が弥生モードだとお考えください。
縄文モードの時代は鎖国・平和・国風文化によって特徴付けられる時代です。
日本は、一旦外的要因によって開国・戦争・外国文化の導入によって特徴付けられる弥生モードの時代になっても、いつしか(一万年もの長期間にわたって続いた)原初の縄文時代のモードに回帰し始める、というサイクルを繰り返して現在に至っている、ということです。
縄文モードの縄文、平安、江戸の各時代の国風文化は、いずれも世界に冠たる中性的な文化だった、とお思いになりませんか。
縄文時代には文学作品がなかったけれども、平安時代の源氏物語、江戸時代の近松の心中物はその典型例です。
また、平安時代の絵巻物や江戸時代の挿絵入り読み本、そして現代日本のアニメに共通するものが、色鮮やかなカットとともに、官能的あるいは暴力的場面の描写であることも興味深いところです。
こういうわけで、吉田ドクトリンについては恐らく、後世の歴史家によって、日本の昭和・平成初期の縄文モードの時代の「鎖国」と「平和」を象徴する「国風文化」の一つだったとされるだろう、と私は思っているのです。