太田述正コラム#7180(2014.9.14)
<新しい人類史?(その7)>(2014.12.30公開)
(11)人間主義
「500年間にわたる、驚くべき諸発見、諸発展、及び諸革命は人々をより幸福にしただろうか?
今日の人々は、中世よりも、或いは、石器時代よりも幸福だろうか?
そうではないとしたら、一体、これらすべての諸変化は何の意味があるのだろうか?
大部分の歴史に関する諸本はこれらの諸論点を無視しているが、これらこそ、<本来、>我々が歴史書に求めることができる最も重要な諸疑問なのだ。」(D)
⇒同感。(太田)
「何千年もの間、とりわけ、諸動物に対し、「我々は被造物中のてっぺんにいる栄光的存在である」という主張でもって、人々は自分達をピラミッドの頂点にいるものと見、自分達がやったあらゆることを正当化することに慣れてきた。
しかし、もし、我々がピラミッドの頂点にいるのではなく、その場所を他の誰かが占めているのだとすれば、何千年にもわたって、我々が、連綿と、我々の下方にある動物達やそれ以外の誰に対して、劣等であると見下してきたことの巨大なパッケージの全てが我々の面前で爆発してしまう。
もし、我々が、彼らより上位にあるから猿達に諸実験を行うことが許されるのだとすれば、私より上位の誰かが私に実験を行うことが認められることになるはずだ。・・・
<これに対する>答えはないのだろうか?
<まさに、>私はそれに取り組んでいる。
例えば、私は、幾つもの、黙想の場所(retreats)や瞑想講習会に赴いている。
それが、現に私が研究している問題<に取り組んでいるということ>なのだ。
<それは、>苦悩と不満という問題だ。
少なくとも、私の経験では、これよりも重要でかつ難しい問題は存在<しえ>ない。
それは、個人及び歴史のレベルにおいて、システム全体を推進させてきた燃料なのだから・・。
毎年、夏季休暇中に、私は、インドにヴィパッサーナ[=省察(insight)瞑想]コースを30から45日間受けるために赴いている。
どんな科学実験とも同じで、長くやればやるだけ、<得られる>諸結果は良いものとなる。
⇒訪問先が間違っている、日本にしなさい、と声を挙げたくなります。
日本には禅もありますし、そもそも、禅経験などなくしてその大部分の成員が人間主義者に人となっているところの、人間主義が現に機能している日本社会が、そこにあるのですからね。(太田)
あなたは、果たして、ヴィパッサーナの概念を科学実験のごとく説明することができるだろうか?
それは、無菌化が必要な実験室で行われる実験のようなものだ。
意識(consciousness)の研究は無菌環境でなされなければならないところ、その一つは意識を喚起する外的刺激を減じることであり、それ自体を遵守することがそれを行うことをより困難にする所以なのだ。
これらのどの諸コースの第一段階でも、静寂にした上で意識に集中させるが、それは、意識を鋭敏化させて自らを観察することを可能にするためだ。
それは、<言うは易くして、実行するのは>通常極めて難しい。
最初の数日間、あなたは一つの対象である息に意識を集中する。
あなたは、それが鼻孔を通して入ったり出たりするのを観察する。
あなたは意識に向かってこう伝える。
「ここに何かとても単純なもの、入りかつ出ている息があるが、それに集中せよ。
それを変えようと試みるな」と。
これは、意識のためのとても難しい訓練であり、<この訓練は、>意識が欲するもの、及び、そのために何が都合が良く都合が悪いか、と取り組むために用いられる。
この時点で、あらゆる類の苛立ちや怒りや退屈さが生じるが、教示されることは同じであり続ける。すなわち、ひたすら観察せよ、だ。・・・
問)これは驚きだ。<あなたの、>人間の不満という主題に関する中間的諸結論いかん?
答)不満は現実の基本的性質なのだ。
それは、二次的なシステムではないのであって、深いルーツなのだ。
我々が見たり経験するもの、我々が描く全ての諸区別・・善と悪、男と女、私が欲するものと欲しないもの・・は不満という基盤の上に立脚しているのだ。
「私はそれがこんな風であることを欲するがそうではない」という不満だ。
それは生存メカニズムに資しているのかもしれないのでは?
<確かに、>もし、あなたが均衡を達成することが決してなく、あなたを患わせものを変えようという試みを恒常的に行って行けば、あなたの生存する確率は向上する。
その通りなのだ。
進化的視点においては、人類を含む生物達は、遺伝子をまき散らすための機械であって、弛むことなく、このまき散らしをどう最大化できるかばかりにあけくれている。
もし、私の生存が脅かされたならば、私は自分自身を守ったり、より多くの子孫を生み彼らを支えることを可能にするであろうあらゆる種類の諸資源を獲得したりすることだろう。
その他に目標(goal)などないのだ。
そういうわけで、進化の40億年は、基本的な進化的不満によってのみ活性化されるところの、諸生物が出現するというところまで完璧に<諸生物を>仕上げて行った。
進化的観点からは、それで十分だということはありえないのだ。・・・
仮に、出来の良いタイムマシーンがあって過去から戻ってこれるとしよう。
1980年代の諸喜劇のようにどこかの時代から動けなくなってしまうようなことはないとして、いつの時代にあなたは行ってみたいか?
<私なら、>釈迦の時代のインドに赴き、人間の不満のルーツのそのルーツにまで到達し、それを解決することに成功した一人の人が本当にいたのかどうかを見極めたいものだ。
それなら、やってみる価値がある。
そして、それを見極められたならば、あなたはその時代から動く必要は<もはや>ない。
まさに、こういう次第であり、私はそこに留まる準備が<既に>できている。」(E)
⇒気持ちは実によく分かるけれど、繰り返しを厭わず言いますが、そんな赴くことが不可能な大昔などではなく、現在の日本に行けば、釈迦に似た人間などごろごろしてるのですがねえ。(太田)
(続く)
新しい人類史?(その7)
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