太田述正コラム#7258(2014.10.23)
<アングロサクソン文明の至上性を疑問視し始めたイギリス(その5)>(2015.2.7公開)
 ゲルツェンが恐れたように、見たところでは(evidently)成功した(triumphant)欧米モデルを真似しようとする誘惑は、常にそれを拒絶しようとする衝動(urge)よりも大きかった。
 西欧の極めて小さな諸国の支配の下で苛立っていたところの、アジアとアフリカの古からの精緻な諸社会にしてみれば、国民国家や工業化された経済のような欧州の組織諸形態を通じて、人間達が、空前の集合的力を凝集(muster)することが可能であることは明白であるように見えた。
 欧州の多く<の諸国>は、この厳しい教訓をナポレオン(Napoleon)の欧州全体を征服しつつあった軍隊由来の政治的・軍事的革新に係る厳しい教訓(lesson)において、初めて学んだ。
 欧州諸社会は、最もしばしば、内外の危険な諸敵を同定することによって、いかに、近代的な軍事、技術、鉄道群、司法及び教育諸制度、を効果的に展開(deploy)することで、帰属と連帯の感覚を生み出すか、を次第に学んで行った。
 ユージン・ウェーバー(Eugen Weber)<(注9)>が、彼の古典とも言える本である、『農民達をフランス人達へ(Peasants into Frenchmen)』(1976年)の中で示したように、これは、フランスそれ自体においても、おしなべて暴虐的なプロセスを辿った。
 (注9)1925~2007年。英国人夫婦の間にルーマニアで生まれた米国の歴史学者。フランスのソルボンヌ大学等で学んだ後、ケンブリッジ大卒、同大修士。しかし、典拠不十分だとして同大に提出した博士論文が却下される。その後、米国に定住し、アイオワ大を経て、長くUCLAで教鞭を執る。彼の主著『農民達をフランス人達へ』は、1870~1914年のフランスの近代化を扱ったもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugen_Weber
 
 それからというもの、欧州の多く<の諸国>は、広範な土地奪取(dispossession)、地域諸言語及び諸文化の破壊、及び、反ユダヤ主義といった古めかしい(hoary)諸偏見の制度化、から苦しめられることとなった。
 キルケゴール(Kierkegaard)<(コラム#1124、5236、6074、6169、7142)>からラスキン(Ruskin)<(コラム#81、176、471、2314、5249)>に至る、19世紀の最も感受性の鋭い諸頭脳は、そのより暗い側面・・アジアとアフリカにおける強欲な欧州の植民地主義・・を必ずしも知ることがなかったにもかかわらず、かかる近代化には逡巡を示したものだ。
 1940年代になると、欧州における競争的な諸ナショナリズムが、人類史において目撃された中で、最も悪しき諸戦争や宗教的かつ民族的諸小数派に対する諸犯罪関与(implicate)をもたらすこととなった。
 第二次世界大戦の後には、欧州諸国は、米国の監督(auspices)と冷戦の諸圧力の下、最終的に欧州同盟として結実したところの、より非敵対的な政治的・経済的諸関係を心に描くよう強いられた。
 しかし、アジアとアフリカの新しい国民国家群は、既に、民族的・宗教的多様性とより古い生活様式の上を滑り止め付蹄鉄を装着した馬に乗って(riding roughshod over)、自分達自身、近代性への危険をはらんだ旅に出発していた。
 欧米スタイルの諸機関で教育を受けたアジア人達とアフリカ人達は、自分達の諸社会に係る欧州の支配に憤るのと同じ位、自分達の伝統的な選良達に絶望した。
 彼らは、強力な(powerful)国民国家群からなる世界において、真の力(power)と主権を求めた。
 それだけが、彼らと彼らの人々に、この白人の世界において、強靭さ(strength)と平等と尊厳に係る公正な機会を彼らに保証するように見えた。
 この探求にあたって、支那の毛沢東(Mao Zedong)<(コラム#35、37、50、78、103、134、204、228、234、338、350、352、471、536、557、567、619、637、700、717、744、745、746、750、762、816、885、915、996、1013、1082、1105、1166、1209、1230、・・中略(埋めるのは他日を期したい)・・6520、6596、6607、6612、6614、6651、6655、6658、6716、6748、6965、6967、6969、6995、7044、7058、7070、7071、7079、7148、7149、7155、7177、7193、7250)、トルコのムスタファ・ケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Ataturk)<(コラム#10、24、163、164、165、167、228、658、673、1561、2646、2856、3425、3983、4001、4442、5196、5615、5646、5648、5658、5660、6273、7100、7194、7205、7211)>、イランの民主主義的に選出された首相のモハメッド・モサデグ(Mohammed Mossadegh)<(コラム#109、203、771、1192、1193、3351、3361、3425、3427、5286、5478、5785、6067、6527、6578)>は、皆、大衆動員と国家建設からなる欧米のモデルの後を追った。
 ケンブリッジ大の歴史学者のクリストファー・ベイリー(Christopher Bayly)<(注10)>が『近代世界の誕生(The Birth of the Modern World)』の中で書いたように、その頃までには、欧州と米国の「世界の諸経済と人々」に対する支配は、人類の大きな部分を、「諸資源と尊厳に向けての奪い合いにおける長期的な敗者群へと」転落させていたのだ。
 (注10)1945年~。大英帝国、インド、及び全球の歴史に係る英国の歴史学者。オックスフォード大卒、同大修士、博士。現在ケンブリッジ大教授。ナイト爵。
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Alan_Bayly
 にもかかわらず、明確に(explicitly)規定されたところの、アジアとアフリカの最初のナショナリスト的偉人達(icons)・・社会主義的で世俗的な傾向のあった彼ら(アタチュルク、ネール、ナセル、エンクルマ、毛、そしてスカルノ)・・の狙いは、欧米に「追いつく(catch up)」ことだった。
 <もっとも、>最近の非欧米の支配諸階級は、自分達の社会経済的未來を規定するのに資するものとして、マルクスよりもマッキンゼー(McKinsey)に目を向けるに至っている。
 しかし、彼らは、自分達の正統性の基盤を、彼らの諸国を欧米と収斂させて欧州と米国の生活諸水準を達成すべく指導する「近代化主義者達」であることに置くことを変更しようとはしなかった。
 とはいえ、保護主義的社会主義を捨て去り、全球的資本主義を採用したところの、近代性に向けて遅れてやって来た<この>者達は、<保護主義的社会主義を採用した諸先輩に引き続き、>今回もまた、時機を誤ったことが判明したのだ。・・・
(続く)