太田述正コラム#7296(2014.11.11)
<アングロサクソン文明の至上性を疑問視し始めたイギリス(その12)>(2015.2.26公開)
 フクヤマは、「民主主義的理想の力」が依然として巨大(immense)であり続けていると断言(assert)しつつ、今年初めに、「「歴史の終わり」においていかなる種類の社会が待っているかについて疑いを抱くべきではない」と主張した。
 しかし、国民国家、社会主義、資本主義、或いは自由民主主義の中に顕現したところの、歴史の合理的精神(spirit)についての偉大なる(grand)ヘーゲル的諸理論の時代は今や終わった。
 我々自身の複雑な無秩序を見るにつけ、歴史が、先験的(apriori)に、究極的には全員に、開示されるとの触れ込みが、これまでのところ選良だけにしか見えない、道徳的かつ合理的な秩序を宣明しているとは、我々は、もはや、認めることはできない。
⇒フクヤマの新著についてのシリーズ、「同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ」、を近々立ち上げる予定です。(太田)
 それでは、我々は歴史をどう解釈すればよいのか?
 米国の人類学者のクリフォード・ギアツ(Clifford Geertz)<(注15)>は、世界の「全般的荒々しさ(pervasive raggedness)」を考察(reflect)しつつ、2006年の彼の死の前の最後の論考の中で、「より大きな首尾一貫性が粉砕されたこと…が局地的諸現実を全般的な(overarching)諸現実と関連させることを…」いかに「著しく困難にした」かを語っている。
 (注15)1926~2006年。「サンフランシスコ生まれ。・・・アンティオーク・カレッジで哲学の修士号を取得。ハーヴァード大学に進み、社会人類学を専攻し・・・博士号を取得。その後、カリフォルニア大学バークレー校・・・、シカゴ大学・・・、プリンストン高等研究所・・・などを経て、・・・プリンストン高等研究所名誉教授。・・・
 インドネシア、バリ島をフィールドとして、・・・「劇場国家」論などを展開し、第三世界を扱う政治学・経済学等の分野にまで広く影響を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%82%A2%E3%83%84
 「およそ、一般的に<物事を>把握しようとするのであれば、そして、新しい諸統一<理論>を顕現(uncover)させようというのであれば、直接、全てを同時に把握しようとするのではなく、諸事例(instances)、諸差異、諸変種(variations)、諸特異性(particulars)、について、一つずつ、ケースバイケースに把握すべきだ」とギアツは記した。
 「分裂した(splintered)世界においては、我々は諸分裂(splinters)と取り組まなければならないのだ」と。
 このようなアプローチにおいては、必然的に、歴史的個別性(specificity)と細部(detail)、諸偶発事の存在(the presence of contingency)、そして、資本主義の諸危機の只中で一層深まりを見せつつあるところの諸国民国家の諸矛盾、に、より大きな注意を払うことが求められよう。
 <米国等による>アフガニスタンとイラクの国家形成が破滅的に失敗した一方で、長い期間続いたところの中産階級によって支持された専制的支配の後、非中央集権化が、世界最大のイスラム教国たるインドネシアを安定化させることに資したのは一体どうしてなのか、を問いかける必要があるだろう。
 すなわち、国民国家という失敗が運命づけられているプロジェクトに再着手するのではなく、オスマントルコ型の国家連合的(confederal)諸制度へ立ち戻って権力を下位委譲(devolve)し少数派の諸権利を保証することによって、ささやかな安定性を達成できることを認めることが求められだろう。
 <上述した>諸分裂に対処するにあたっては、「イスラム過激主義」に敵対する空虚な道徳主義を容け入れる余地はない。
 イスラム教の革命家達は、清教徒的にしてユートピア的な熱情の下、暴虐的にシリアとイラク一帯で前進中だが、<彼らは、>イスラム教の長い歴史の中の何にも似ていないのであって、むしろ、世俗的なクメール・ルージュに似ている。
 一般論でもって斬新な把握を行うためには、<まずもって、>欧米のイデオローグ達や彼らの非欧米のエピゴーネン達が引き続き近代世界を「作り」続けているところの、正確な諸方法について理解することを必要ならしめる。
 1990年代に、よるべなきロシアの衆生に対して適用された(administered)ところの、「衝撃療法(Shock-therapy)」、及び、その後の身の毛のよだつ苦痛(suffering)、がプーチンの救世主的ユーラシア主義の出番を作った。
 しかし、ギアツの諸差異と諸変種の強調(insistence)を踏まえれば、ロシア、支那、及び、インド、のナショナリスト達によって明確に叙述されたところの、欧米に対する怒りを、近代化の弱肉強食的形態・・国家と経済界の利益によって駆動された複合体(nexus)による容赦なき強奪(dispossession)・・に対して、チベット、インド、ペルー、及び、ボリビア、の土着の人々によって提起された(mounted)抵抗、と合体させることはできないのだ。
 いずれにせよ、今日、欧米型の進歩に疑問を抱く人々は、限界的諸コミュニティや若干の怒れる環境活動家達だけにとどまらない。
 同様、世界銀行は、先月、新興国経済諸国、或いは、ベイリー<(前出)>が歴史の「長期的敗者達」と呼んだところの「人類の大きな部分」、が、欧米に追い付くためには3世紀かかるかもしれないことを認めた。
 コンサルタント達や投資家達によって愛されているところの景気の良い諸見通しを容赦なくこき下ろ(annul)しているところの、このエコノミスト誌<の編集者達たる筆者達>による評価は、この10年の急速な経済成長は「逸脱」であって「わずか数年前に人々が期待していたよりもはるかに長い期間、何十億人もが、より貧しいままであり続けるだろう」、というものだ。
 この意味するところは、<我々の>酔いを一挙に醒まさせる。
 すなわち、非欧米は、自身、欧米がもたらした暴力とトラウマを無限に大規模に再現(replicate)する羽目になるだけではないのだ。
 空前の損害を環境に負わせること・・諸海面の高さの上昇、前例のない降雨、旱魃、減少する諸収穫、そして、ひどい諸洪水、という形で今日宣明されているところのもの・・を促進しつつ、<なお、>非欧米は、欧米に追い付く真の展望が得られないというのだ。
 どうやって、我々はこの袋小路から抜け出すことができるのだろうか。
 欧米化にあたって、悲劇というべき打ち勝つことのできない諸矛盾を自身が発見したことで、アロン<(前出)>は、経済成長を高めることそれ自体を目標にすることに疑問を抱いたところの、非欧米と欧米の多くの思想家達と、奇妙な仲間同士になった。
 もとより、粗っぽい功利主義的代数・・貪欲、奴隷制を経済的価値あるものとすること、個人的自由を消費者選択と混同すること・・のはるか以前から、良い生活を構想(conceive)する他の諸方法が存在していたのだけれど、我々の最も著名な頭脳を持つ人々の思考が、この代数によって置き換えられてしまったからだ。
(続く)