太田述正コラム#7300(2014.11.13)
<アングロサクソン文明の至上性を疑問視し始めたイギリス(その13)>(2015.2.28公開)
 このような、「発展」に係るリベラルな資本主義的諸観念の諸再点検、及び、抑圧されてきた知的諸伝統の探索は、決して・・・鼓舞的ないし自惚れ惹起的な営みではない。
 馬鹿げたことなどはやらないという賢明な政策を順守すべく努力してきたバラク・オバマは、一連の(assorted)やればできる論者達(can-doists)によって弱虫だと攻撃された後、もう一つの制限のない(open-ended)戦争に乗り出してしまったところだ。
 簡単に言えば、自由民主主義的な欧米がその最も悪しき諸敵を粉砕した20世紀初期の中で永遠に生きるという素敵な報われ方をした(handsomely compensated)英米の選良達は、根絶すべき人非人達(blutes)を発見<し、それらを根絶>するのを止めることはないだろう。
 しかし、それ以外の我々は、21世紀に生きなければならない以上、それが、欧米モデルにとってのもう一つの腐った世紀へと堕さないように心掛ければならないのだ。」
3 米英における瞑想ブーム
 (1)米国
 過去10年において、静かに、仏教の核心的諸教義(tenets)が、精神的な辺境(fringe)、から、毎日の生活の諸挑戦に対処するための広く受け容れられた諸テクニック、へと大化けした。・・・
 仏教の諸信条を超えて、仏教の念(mindfulness)<(注16)>中心的な(centered)瞑想もまた、否定できぬ勢いを得ている。・・・
 (注16)「初期仏教以来の瞑想導入法として、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)「安那般那念」(アーナパーナ・サティ)という行法がある。
 仏教の瞑想において観想する対象(業処)は様々に数多くあるが、その内の「十随念」などでは、仏(釈迦)を三宝(仏・法・僧)の1つとして観想したりする。これが元来の意味での「念仏」である。
 そこから転じて、大乗仏教においては、自分達が帰依する各種の如来・菩薩を観想したり、そのための祈りを捧げることを念仏と表現するようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
 「安那般那念は、狭義には、文字通り「入出息(呼吸)を意識する」(あるいは、呼吸を数える)ことで、意識を鎮静・集中させる「止行」(サマタ瞑想)<(コラム#7297)>の一種、ないしは導入的な一段階を意味するが、広義には、そこから身体の観察へと移行していき、「四念処」に相当する「観行」(ヴィパッサナー瞑想)<(同上)>の領域も含む行法全般を指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5
 この内心の覚醒(inward awakening)に与ったものの多くは、1960年代に、ビルマ、タイ、及びインドの辺鄙な所にある諸修道院で何年も費やした男性達と女性達の小集団に帰せられる。
⇒残念ながら、日本の禅には、サマタ瞑想、すなわち、悟りに至る最終ステップ、が欠けていたために、この中に日本が登場しないわけです。(太田)
 この彼らが、発見した諸事物を北アメリカに持ち帰ったのだ。・・・
 <但し、>仏教の念実践(mindfulness practice)は、米国向けに翻案(adapt)する必要があった・・・。
 <というのも、米国では、いや、欧米では、>・・・「我々は、多くの激しい(intense)懸命に達成しようとする大志(striving ambition)、そして多くの自己批判、自己判断、そして、自己憎悪(self-hatred)、に出っくわすからだ」。・・・
 やがて、<彼らは、>米国人達には、自己容赦(self-forgiveness)と「愛情を込めた親切(loving-kindness)」の諸概念に緊密に結びつけられたところの、独特の瞑想実践・・<自身の>不完全さを無条件に受容する訓練・・が必要であると信じ始めた。
 このような基礎(foundation)なくしては、・・・瞑想は、容易に、またもや、懸命さのもう一つの形態・・真の満足(contentment)への経路ではなく、「自分自身を改善するために行うもう一つのこと」・・へと堕してしまう、というのだ。・・・」
http://tmagazine.blogs.nytimes.com/2014/10/15/buddhism-meditation-spiritual-mindfulness/?_php=true&_type=blogs&hp&action=click&pgtype=Homepage&version=HpSum&module=pocket-region&region=pocket-region&WT.nav=pocket-region&_r=0
(10月16日アクセス)
 (2)英国
 「サム・ハリス(Sam Harris)<(コラム#5284、6483、7175)は、その新著たる>・・・『目覚める–宗教抜きの精神性への案内(Waking Up: A Guide to Spirituality Without Religion)』<の中で、>・・・哲学的かつ科学的な諸根拠から、以下のことを明確に説明する。
 すなわち、彼は、我(が)の幻想がこの世の(worldly)苦悩の源泉であるとの仏教的見解を是とし、我々がそれを克服することに資する諸洞察や諸手法(techniques)の洗練された一連のものを活用(draw upon)する<よう勧める>のだ。
 このところ、諸便益を提供するとして科学によって褒め称え(fete)られている方法論(method)たる念的瞑想(mindfulness meditation)こそ、これらの中で主流を占めている。・・・
 しかし、これは、彼の精神的(spiritual)生活に関する観念が、部分的なものであることを顕現している。
 座って、全体との一体性(oneness-with-it-all)を経験することは確かに結構なことではあるが、この世的な(this-worldly)精神性<を経験するための>他の諸候補者として、他者達と共同体を形成する(communing)、宇宙への畏敬を表明する、人生の諸サイクルないし芸術作品の至高性(sublimity)に驚異を見出す、といったものもある<はずだからだ>。
 <ところが、>これらについて、ハリスは何も言っていないのだ。
 彼は、アラン・ド・ボトン(Alain de Botton)の、より守備範囲の広い(wide-ranging)『無神論者達のための宗教(Religion for Atheists)』(2012年)<(コラム#5238以下)>とは違って、<キリスト教的な>宗教的諸儀典<であっても、それ>が、人生の旅に意味と慰め(solace)を見出す無数の諸方法(ways)で助けてくれること、を許容しないのだ。・・・」
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/1d3edaaa-5df4-11e4-b7a2-00144feabdc0.html#axzz3Hm9QW2jM
(11月1日アクセス)
4 終わりに
 2と3がどう関係しているのか、と怪訝な思いを抱いた方もおられると思います。
 要するに、2では、イギリス人が、欧米文明、より端的には、アングロサクソン文明、の至上性に深刻な疑問を投げかけているわけです。
 (しかし、二人で書いたというのに、しかも、二人とも、文学者ではなく、練達の記者であるはずなのに、その文章はよく言えば難解、悪く言えば悪文です。これは、彼らが苦渋の思いで七転八倒して書いたからだ、と私は忖度しています。
 アングロサクソン文明の至上性という、牢固とした確信が、少なくとも彼らの心中では根本的に揺らいでいることへの絶望的焦燥感が、しからしめたのでしょう。)
 ところが、彼らは、アングロサクソン文明に代わる至上の文明が存在する予感は抱きつつも、そのイメージすら描写できていません。
 他方、3では、アングロサクソン文明における個々人に問題があり、より、まっとうな人間になるべく努力する必要があることに米英の多くの人々が気付きつつあることが示されています。
 しかし、まっとうな人間が多数を占めるようになれば、自ずから自分達の、バスタードアングロサクソン「文明」ないしアングロサクソン文明が変容するのではないか、というところまで思いを馳せることはできていません。
 (なお、まっとうな人間になる方法論については、やはり、米国よりもイギリスの方が、より正鵠を射た理解をしている知識人が多そうであること、も分かります。)
 人間主義に立脚する文明こそ、至上の文明であること、日本文明がまさにそうであること、に彼らが気付くまで後一歩のように見えて、実は、その一歩を進めることは至難のわざなのかもしれません。
 我々日本人が、まずはイギリス人を、その上で、米国人、ひいては世界の人々、を善導することが望まれる次第です。
(完)