太田述正コラム#7308(2014.11.17)
<同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ(その1)>(2015.2.4公開)
1 始めに
「インダス文明・瞑想・ヨガ」シリーズの途中ですが、お約束の表記のシリーズを並行的に立ち上げたいと思います。
フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)の『政治的秩序と政治的朽廃(Political Order and Political Decay)』の概要をその書評類を通じてご紹介し、私のコメントを付す、という皆さんお馴染みの形での提供となります。
A:http://www.nytimes.com/2014/09/14/books/review/francis-fukuyamas-political-order-and-political-decay.html?hpw&rref=books&action=click&pgtype=Homepage&version=HpHedThumbWell&module=well-region®ion=bottom-well&WT.nav=bottom-well&_r=0
(9月14日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.washingtonpost.com/opinions/book-review-political-order-and-political-decay-by-francis-fukuyama/2014/10/24/57414b58-4e35-11e4-aa5e-7153e466a02d_story.html
(10月25日アクセス)
C:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2014/1024/Political-Order-and-Political-Decay-What-does-it-takes-to-create-a-well-functioning-modern-state
(10月26日アクセス)
D:http://www.foreignpolicy.com/articles/2014/11/04/fukuyamas_fatalism_democracy
(11月5日アクセス)
E:http://www.literaryreview.co.uk/gray_09_14.php
(11月17日アクセス(以下同じ))
F:http://www.theguardian.com/books/2014/sep/28/francis-fukuyama-political-order-political-decay-review-magisterial-overview
G:http://online.wsj.com/articles/book-review-political-order-and-political-decay-by-francis-fukuyama-1412291251
H:http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2014/10/doubling-down-on-democracy/379340/?single_page=true
I:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/67b8f490-4269-11e4-9818-00144feabdc0.html#axzz3JJIk1Xpb
J:http://www.foreignaffairs.com/articles/141729/francis-fukuyama/america-in-decay
(この本からの抜粋)
最初にお断りしておきますが、米英の主要メディアがこれほど一斉に書評で取り上げた本に遭遇したのは久しぶりであり、それらにざっと目を通してみたところ、表記のような私の予想は正しい・・つまり、相変わらず彼は自由民主主義の至高性を信じて疑っていない・・ものの、フクヤマが、かなり根底的な米国政治の批判を行っており、その批判は私のそれとかなり重なっている部分があることには瞠目させられました。
但し、彼の米国批判は、「アングロサクソン文明の見地からのアメリカ「文明」の批判」的の域にとどまっており、気の利いたイギリス人であれば、誰もがそう思ってはいても、あえてそう公言してこなかった程度の代物である、というのが私の見解です。
結論めいたことを申し上げてしまいましたが、さっそく始めることにしましょう。
2 同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ
(1)序
1989年に、フランシス・フクヤマは、『ナショナル・インタレスト(The National Interest)』誌に「歴史の終わり?(The End of History?)」という論考を掲載したが、それは、公共的議論の中心へと彼を射出した。
しばしば、誤解され、悪口を言われたけれど、その中心的主張は、まっとうで思慮あるものだった。
すなわち、共産主義の崩壊によって、自由民主主義は社会経済的近代性と両立しうる唯一の政府形態になった、というのだ。・・・
⇒自由民主主義は、社会経済的「近代性」とは両立するとしても、自由、すなわち、人権概念、が画一的過ぎていること、及び、民主が選挙を意味する限りにおいて狭すぎること、から、自由民主主義は、政治経済的「超近代性」とは必ずしも両立しない、というのが私の考えです。
より端的に言えば、日本文明に体現されている人間主義を主、アングロサクソン文明が生み出した自由民主主義を従とする、政治システム・・人権概念でもって全球的規模で人間主義的裁量の限界を画し、かつ、選挙によって各政体における政治的権力の正統性を裏付ける政治システム・・こそ、最も普遍的にして最終的な政治理念なのです。
このことについては、折を見て、もう少しきちんと説明したいと思います。(太田)
それから四半世紀が経過したが、彼は、長期的に見て、他の政治システムは存立不可能であることについての確信は維持しつつも、彼の探索の結論を、居住まいを正させる一ひねりを効かせて結論付ける。
すなわち、自由民主主義の将来は曇りがちであるけれど、それは、外来の敵対者からの競争ゆえにではなく、それ自身の内部的諸問題ゆえにである、と。・・・
フクヤマは、<今次連作の>前巻たる『政治的秩序の諸起源(The Origins of Political Order)』<を>・・・2011年に登場<させた。>」(A)
「<この>フクヤマの政府に関する野心的研究<の前巻>は、チンパンジー達から始まり、フランス革命で終わっていたが、本巻は、この物語を現在に至るまで取り上げている。」(B)
「<もう少し、詳述しよう。>
フクヤマは、政治的秩序は、全て、諸制度に関するものである、と主張し、とりわけ、自由民主主義は、三つの別個の諸様相の微妙な均衡に依拠している、と主張した。
それは、政治的答責(accountability)、強力かつ効果的な国家(state)、そして、法の支配(rule of law)、である、と。
答責性は、指導者達を彼らの公衆の意向に敏感にさせる(responsive to)ための諸メカニズムを必要としたが、それは、定期的な自由かつ公正な、複数政党による諸選挙を意味する。
しかし、諸選挙だけでは十分ではないのだ。
真の自由民主主義は、その答責性の諸制度が全員に平等に適用される諸法規や諸規則によって諸事を行うことができる中央政府によって補完されなければならないのだ。
フクヤマは、人類史を通じて、いかに、これらの三つの諸要素がしばしば独立して、或いは、様々な諸組み合わせでもって出現したかを示す。
例えば、支那は、欧州においてそれが存在するに至るよりもはるか前に国家を発展されたけれど、法の支配と政治的答責性のいずれをも獲得しなかった。
インド、及び、イスラム世界の多くは、対照的に、法の支配的なものは発展させたけれど、強力な諸国家は発展させなかった。
(イスラム世界の多くでは、政治的答責性もまた、発展させなかった。)
18世紀末の欧州の諸部分においてのみ、この三つの諸様相(aspects)てが一緒に同時に進行し始めた、とフクヤマは記す。
『政治的秩序と政治的朽廃』は、この地点から物語を再開し、読者をフランス革命から現在に至る近代的発展の性急な(whirlwind)旅に誘う。
フクヤマはまことにもって野心的だ。
彼は、自由民主主義が何であるかを描写することを超えたことをやろうと欲した。
彼は、いかに、そして、どうして、それが発展したのか(或いは、発展しなかったのか)、を発見しようと欲したのだ。」(A)
(続く)
同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ(その1)
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