太田述正コラム#0292(2004.3.18)
<張学良(その3)>
1934年に蒋介石の命によって欧州から帰国した張学良は、再び華北の国民党軍の司令官となり、中共軍の討伐に従事します。
しかし、将兵の間では、蒋介石がろくにカネを回してくれないことによる給料の遅配と中共の工作によって次第に厭戦ムードが蔓延していきます(208??211頁)。
窮地に陥った張学良は、1936年初めから、中共と直接接触を始めるとともに、蒋介石に中共との提携を求める書簡を何度も送ります。
1938年、蒋介石は張学良の対中共戦がはかどらないことに業を煮やし、自ら督戦のために西安に赴き、そこで西安事件が起きるわけです。
この西安事件の間中、張学良はおびえっぱなしであり、最後の頃には精神錯乱状態に陥っていたといいます。
(以上、211??219頁による。)
西安事件が「解決」すると、南京に帰る蒋介石に36歳の張学良は同行するのですが、南京にと到着するとすぐに軟禁状態に置かれ、歴史の表舞台から永遠に退場させられてしまいます。
ところで、西安で蒋介石(国民党政府)、周恩来(中共)、張学良の三者の間で交わされたはずの文書はどうして現在に至るまで公表されていないのでしょうか。第二次国共合作だけの内容なら、日支事変勃発以降、公表することに何等問題がなくなっているはずです。
古野直也氏は、対日開戦とその開戦期日がこの文書に明記されていたに違いない、と推測しています。
そうだとすれば、日支事変は日本側が惹き起こしたことにしておきたい国民党政権にしても、中共にしても、この文書を絶対に公表するわけにはいかなかったことでしょう。それは(この文書の写しを信頼できる第三者に預託していたと思われる)張学良を蒋介石が殺せなかった理由でもあろう、と古野氏は指摘しています。
(以上、218頁による。)
それでは、西安事件を惹き起こすことによって、国共合作を実現し、対日戦争開始を決定付けた張本人である張学良が、軟禁が解かれて自由な身になってからも、ついにこの文書を公表しようとしなかっただけではなく、そもそも西安事件の時のことについて一切語ろうとしないまま生涯を終えたのは一体どうしてでしょうか。
張学良の動機が、公憤でも何でもなく、ただただ父と自分の恨みを晴らしたい、という私憤に過ぎなかった(コラム#187)からだ、としか考えようがありません。沈黙さえ守れば、馬脚を現さずにすむ、という一念だったのでしょう。
それにしても、一つどうしても解けない謎が残ります。
それは、脅迫によって書かされた証文は無効のはずなのに、蒋介石がどうして「解放」されて南京に戻ってから、西安での「約束」を反故にしなかったのか、という謎です。
ワルを絵に描いたような蒋介石が説得され、洗脳された、という可能性はおよそ考えられません。となると、中共が蒋介石の致命的な弱みを握っており、それを周恩来が西安で蒋介石につきつけたのか(注5)、西安にかけつけて交渉に加わった宋美齢(蒋介石の妻。彼女は文字通り蒋介石のあらゆる弱みを握っている)が何らかの理由で蒋介石に言い含めたのか(コラム#178)、といったことが考えられますが、皆さんはどう思われますか。
(注5) 蒋介石の致命的な弱みを張学良が握っていたとは思えない(コラム#290)。
張学良は、1949年に台湾に移され、その後キリスト教徒となり、1991年に半世紀以上にわたる軟禁を解かれ、1992年についに完全に自由の身となりハワイに移住します。
1994年に張学良は、「私が生涯かわらず愛したものは三つあります。ひとつは麻雀を打つこと、ひとつは冗談をいうこと、ひとつは好きな歌をうたうことです。この三つがあれば退屈しません」と語っています。
また、彼が好んで揮毫した漢詩は、
古えより英雄 多く色を好むも
未だ必ずしも色を好むは尽くは英雄ならず
我 絶えて英雄漢に非ざれども
惟だ色を好むの英雄に似る有るのみ
です。
これは韜晦でも何でもないのでしょう。張学良は、まことに自分自身のことがよく分かっていたな、と思います。
蒋介石は張学良のことを「大事に愚か」と評していますが、これも言いえて妙ですね。
張学良は2001年に101歳で亡くなります。ニューヨークタイムスは、その訃報の中で、「張学良は東北軍20万を擁しながら、抗日などよりも、ムッソリーニの娘にあたる当時の中国公使の妻と浮き名を流すほうに熱心だった」と書きました。
(以上、前掲hi・hoサイトによる。)
こんな男によって、東アジアの現代史がねじまげられてしまった怒りを、一体われわれはどこにぶつければよいのでしょうか。
(完)