太田述正コラム#7324(2014.11.25)
<新イギリス史(その1)>(2015.3.12公開)
1 始めに
 ロバート・トゥームズ(Robert Tombs)の『イギリス人と彼らの歴史(The English and Their History)』が上梓されたので、私のアングロサクソン論反芻、検証を兼ねて、書評類をもとに、そのさわりをご紹介しようと思います。
A:http://www.theguardian.com/books/2014/nov/17/the-english-and-their-history-review-robert-tombs-resounding-importance
(11月18日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/b410e180-6f38-11e4-8d86-00144feabdc0.html#axzz3JkuSfw8I
(11月22日アクセス)
C:http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/dont-wave-flags-and-embrace-immigrants-if-you-want-to-be-truly-english-9841798.html
(11月25日アクセス(以下同じ))
D:http://www.heritagedaily.com/2014/11/what-does-it-mean-to-be-english/105521
(無記名紹介。以下は、有料書評で、参照できなかったものです。)
http://www.thesundaytimes.co.uk/sto/culture/books/non_fiction/article1479561.ecehttp://www.thetimes.co.uk/tto/arts/books/non-fiction/article4252633.ece
 なお、トゥームズは、ケンブリッジ大の近代欧州史の教授であり、研究の主要対象は、19世紀フランス政治史、及び、17世紀以降の英仏関係史であり、
rpt1000@cam.ac.uk‘>http://www.hist.cam.ac.uk/directory/rpt1000@cam.ac.uk
奥さんはフランス人たる歴史学者です。
http://www.theguardian.com/world/2006/mar/25/france.historybooks
2 新イギリス史
 (1)各論
  ・ノルマンコンケスト
 「ノルマンコンケストは、「イギリスの支配階級を絶滅させ」、「イギリス史における財産の最大の移転」を行った(represented)。
 しかし、これは呪いというよりは祝福であることが判明した。
 というのは、権力の中央集権化は、ウィリアム征服王からヘンリー7世に至る18人の国王達が自分達の王位継承や諸叛乱への諸挑戦に苦しめられた(suffered)けれど、イギリスは、全体として、大陸欧州の多くを苛んだ(afflicted)ところの、更なる<外国のイギリス王位僭称者による>侵攻や余りに力ある諸侯達(barons)相互の恒常的紛争を免れることができたからだ。」(B)
⇒これは、イギリスが封建制とついに無縁であったゆえん、及び、欧州文明諸国が、17世紀になってから、イギリスの中央集権制に憧れ、絶対王政樹立に勤しんだゆえん、の説明にもなっています。(太田)
  ・黒死病
 「1348年に到来した黒死病は、イギリスの人口の半分を殺したが、その後、近隣諸国よりもうまく行った。
 というのも、労働力不足と農民達(peasants)の集積された法的諸権利が欧州の大部分の他の諸部分よりも約400年早く農奴制の終焉をもたらしたからだ。」(B)
⇒むしろ、農奴制は、事実上、イギリスに存在したことはない、と考えた方がよい、というのが私の見方であることはご存知の通りです。(太田)
  ・英語公用語化
 「14世紀後半は、「英語が公共生活と近代文学の第一言語として突然出現した」ことでも銘記される。
 シェークスピアの諸戯曲やティンダル(Tyndale)<(注1)>の英語訳聖書は<イギリス人の>文化的な自信に大きな貢献をした。
 (注1)1494/95~1536年。「聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳した人物。宗教改革への弾圧により<欧州>を逃亡しながら聖書翻訳を続けるも、1536年逮捕され、焚刑に処された。その後出版された欽定訳聖書は、ティンダル訳聖書に大きく影響されており、それよりもむしろさらに優れた翻訳であると言われる。実際、新約聖書の欽定訳は、8割ほどがティンダル訳のままとされる。すでにジョン・ウィクリフによって、最初の英語訳聖書が約100年前に出版されていた<が、それはラテン語からの訳だった>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB
 オックスフォード大卒。同大修士。ドイツで上記英語訳を行ったが、ヘンリー8世の離婚に反対したため、同国王の要請もあり、神聖ローマ帝国当局により、異端の廉で、ブリュッセル近郊で絞殺後死体を焼かれる刑に処せられた。処刑直前に、「主よイギリス国王の目を開かせたまえ」と叫んだと伝えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Tyndale
 16世紀の最も偉大な<英>文学の<当時の>日常言語(speech)との近似性(closeness)は、間違いなく、それ以来、書き言葉(spoken language)と話し言葉が基本的に変化することなく」、かつ、「人類<全体>の経験に消すことのできない痕跡を残して<くることがで>きた」「主要な理由の一つだ」、とトゥームズは言う。」(B)
⇒確かに、シェークスピアの戯曲の英語の現代性には驚くべきものがあります。
 シェークスピアの諸作品やや欽定訳聖書(遡ればティンダル英語訳聖書)を日常的に読み続けること、とりわけ、話し言葉で書かれているシェークスピアの諸戯曲を鑑賞し、口ずさむことで、少なくとも17世紀以降の英語は、話し言葉を含め、変化を基本的に免れたのでしょう。
 このような安定性が、19世紀以降、英国、次いで米国が世界覇権国となったことと相俟って、今日の英語の国際共通語化をもたらした、と言えそうです。(太田) 
  ・バラ戦争
 
 「バラ戦争(The Wars of the Roses)<(注2)(コラム#4916、4918)に関わった者>は、概ね、支配階級の成員達、及び、彼らの直属の廷臣達に限定されていた。」(B)
 (注2)「1455年・・・から、1485年にテューダー朝が成立するまで・・・、プランタジネット<王>家・・・<主流>のランカスター家と<傍流の>ヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世が<イギリス>王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューや・・・国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった。・・・<最終的には、>ランカスター派の・・・ヘンリー・テューダー<が>、1485年に兵を率いて<イギリス>に上陸<し>、ボズワースの戦いで<ヨーク家のグロスター公改め>リチャード3世を撃ち破っ<て決着がついた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒イギリスの(欧州における中世の頃)における最大の内乱でも、それに、一般住民は巻き込まれたわけではない、ということです。
 実際、上掲日本語ウィキペディアはもとより、英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Roses
にも、死傷者数への言及は全くありません。(太田)
  ・英国教の成立
 「宗教改革<(=英国教の成立)>は流血をもたらしたけれど、30年戦争等の欧州の諸宗教戦争の流血の規模とは全く比較にならない。」(B)
⇒トゥームズに限りませんし、また、「宗教改革」という歴史用語に限りませんが、欧州文明における歴史用語をそのままイギリスの歴史において用いることは、韜晦目的があってのことだとは思いますが、甚だ不適切である、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)