太田述正コラム#7326(2014.11.26)
<新イギリス史(その2)>(2015.3.13公開)
・イギリス内戦
「チャールズ(Charles)1世は政治は不得手だったけれど、極めて穏健な専制君主であって、彼の忠実な召使達たる、ロード(Laud)<(注3)>とストラッフォード(Strafford)<(注4)>という、生かしておいたらチャールズの自存の邪魔になったであろうところの、彼の臣下達中の2人の処刑をわずかに命じただけだ。
(注3)William Laud(1573~1645年)。イギリスの教会人にして学者。1633年からカンタベリー大司教。オックスフォード大卒、同大修士、同大神学博士。チャールズ1世の意に沿って英国教の教義等を均一なものにしようとして(ローディアニズム)、清教徒を含む、各方面の反発を招いた。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Laud
ローディアニズム(Laudianism)は、カルヴィン主義の予定説(predestination)を否定し、自由意志を認め、誰にも救済される可能性があるとした。
これは、英国教への(ヤーコブス・アルミニウスが創唱した)アルミニアニズム(Arminianism)の導入だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Laudianism
アルミニウス(Jacobus Arminius。1560~1609年)は、「オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の神学者。・・・1603年、・・・ライデン大学神学部の教授<となる>・・・。<彼の死後、イギリス>国王ジェームズ1世は・・・アルミニウスの著書を焼き捨てるよう・・・命じた<ものだ>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9
(注4)Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford(1593~1641年)。ケンブリッジ大卒。テンプル法学院で学ぶ。下院議員、チャールズ1世の覚え目出度く貴族に列せられ、枢密院議員を経てアイルランド総督(Lord Deputy of Ireland)となるも、この時の強権的統治を長期議会において咎められて、刑死。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Wentworth,_1st_Earl_of_Strafford
⇒これも累次指摘してきたところですが、イギリス人の多数は自然宗教的な宗教意識を抱いており、教義等を均一にする、換言すれば、特定の教義等のキリスト教、より端的に言えば厳格なキリスト教信仰、を押し付けられることには拒否反応を示す、ということです。(太田)
チャールズが議会抜きで統治した時期は、逆説的にも平和と繁栄の時であり、彼を転落させたもの(undoing)は宗教であって専制的(despotic)統治ではなかった。
生来の調停者ではあったけれど、クロムウェルは、「長期的ヴィジョンを示さず」、彼の護民政府(Protectorate)は、文化的にわびしく(joyless)、かつ、「姦淫を死刑に値するものとしたところの、我々の歴史上性的に最も抑圧的な体制」だった。」(B)
・名誉革命
「1688年の名誉革命の後、単一の宗派(religious denomination)が支配的となりがちであったところの、他の諸国とは違って、イギリスは、17世紀以来、片や英国教主義(Anglicanism)、そして、片や非国教主義(Nonconformism)、が緊張関係を維持してきた。
⇒英国教自体が、いいころかげんな教義等しか持ちえなかったというのに、そんな英国教に対してすら、根強い拒絶反応があった、ということです。(太田)
この<トゥームズ>による研究は、この、競争相手同士の宗教的2党派という、尋常ならざる状況が進化して新しい諸層(layer)が<イギリス内に>生じたことを示唆している。
宗教的な国教反対(Dissent)の諸基盤の上にホィッグ(党)、自由(党)、そして労働(党)の諸政治が構築され、次いで、この国が北の労働者階級と南のより富裕な階級へと分断されるに至るにつれて社会的かつ地理的諸特徴を帯びるようになったのだ。
⇒これは、なかなか斬新な切り口だと思いますね。(太田)
この宗教的な起源点の一つの帰結が、イギリスの政治の明確に道徳的かつイデオロギー的な風潮(tone)の保持である、とトゥームズは言う。
その結果、甚だしく中央集権化された政府によって処理されるところの、取るに足らない(commonplace)諸細部(details)が、熱気を帯びたイデオロギー上の議論(debate)の諸対象(subjects)になった、と。
<実際、>健康や教育<の制度の在り方>が今や何世紀も昔に奴隷制や参政権がそうであったのと同じような感じ(terms)で論議されるが、そんな類のことは、他の諸国では、<イギリスに比べて、>はるかに感情を掻き立てることが少ない。」(D)
⇒個人主義は、政治に限らず、議論(debate)を過度に活発化させてしまう、というだけのことだと思います。
イギリスが、概ね二大政党制を維持してきたのは、少なくとも二つの大きな集団に分かれないと、議会内で活発な議論にならないということと、個人主義が同調を嫌うことから、イギリスにおける階層間の言語や物の考え方の収斂が生じないこと、が背景にあると思います。
この点は、機会があれば、もう少し掘り下げてみたいところです。(太田)
「ウィリアム(Wiliam)3世の名誉革命から250年、宗教的諸緊張がイギリスの政治的かつ社会的な生活に影響を与え続けたけれど、それらは、暴力を掻き立てたことは殆んどなかった。
公共生活においては攻撃性(aggression)が見られたけれど、しばしば「熱狂(enthusiasm)」とか「狂信(fanaticism)」と呼ばれたところの、極端主義(extremism)は暗黙裡に拒絶されたこともまた事実だ。
イギリス人は、直言(plain speech)と節度(moderation)に関して自分達自身に誇りを抱いたのだ。・・・
⇒個人主義は、本来的に、集団的であるところの、宗教原理主義、ひいてはイデオロギーを嫌うことから、「熱狂」や「狂信」とは基本的に相容れないのです。(太田)
1688年から1815年のナポレオンのワーテルローにおける敗北に至るまで、ロンドンの政府は、9年戦争(1688~97年)、スペイン継承戦争(1701~13年)、7年戦争(1756~63年)、そして、革命及びナポレオンのフランスに対する2つの戦争(1792~1802年、1803~15年)、を戦った。
同政府は、勝利し、(経費が嵩んだ、1775~83年の米独立戦争に関しては)巨大な諸領域を失った。
1815年のフランスに対する勝利は、ロンドン政府が「歴史上最初の全球的覇権国」を統治する結果をもたらした。
この役割は、もう一つの大国だけ、つまりは米国だけが、1989年以降、<イギリスの前例とは違って>限定的な成功しか収めていないが、負った。」(B)
⇒これは、(以前にそう叙述したことがありますが、)いわゆる第二次英仏百年戦争であり、第一次とは違って、一貫してイギリス側が優位で進めただけでなく、最終的な勝利も収めたわけです。
で、その最終的な勝利に大きな役割を果たしたのがロシアであり、その後イギリスはロシアとの間でグレートゲームをユーラシア大陸で展開して行ったのはご承知の通りです。
何ということはない。第二次世界大戦における米国の勝利に大きな役割を果たしたのがロシアであり、その後米国はロシアとの間で冷戦をユーラシア大陸を中心に展開して行ったこととほぼ同じです。
ということは、冷戦終焉までの間、米国が全球的覇権国でなかったというのであれば、第一次世界大戦ないし第二次世界大戦までの間、イギリスだって全球的覇権国ではなかったことになってしまいます。
トゥームズは、どうしてこんな初歩的な修辞的ミスを犯したのでしょうね。(太田)
(続く)
新イギリス史(その2)
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