太田述正コラム#7328(2014.11.27)
<新イギリス史(その3)>(2015.3.14公開)
・大英帝国
「トゥームズは、産業革命、ひいてはイギリスの繁栄が、略奪的な帝国主義と奴隷制に立脚して成し遂げられた、との諸主張に対して、決定的要素が諸輸出だったのかそれとも国内需要であったのかについて経済史家達の見解が分かれていることを指摘し、懐疑的だ。
⇒イギリスは、繁栄していたからこそ、奴隷貿易を含む帝国主義的海外展開のための初期投資を行い得るたわけですが、利益を得る目的で、かつ実際利益を得た形でイギリス人が海外に進出して行った以上、帝国主義はイギリスの繁栄を一層促進した、と言うべきでしょう。(太田)
「既に高かったイギリスの労働者達の諸賃金」及び「イギリスにおける上昇基調の(buoyant)消費需要…」の故に、「継続的な技術開発に対する多大な(heavy)投資がイギリスにおいては実行可能(viable)であった」のに対し、フランスやインドでは、労働力が安価であったので、多軸紡績機(spinning jenny)<(注5)>群に投資する必要がないことが保証(ensure)された。
(注5)「木綿糸の需要が増えて供給が逼迫し、糸車で1本ずつ糸を紡ぐのでは間に合わなくなっていた。・・・<ランカシャーのイギリス人の>ジェームズ・ハーグリーブス(James Hargreaves<。1720?~78年>)は、・・・1764年頃、8本(後に16本に改良)の糸を同時に紡ぐことのできる多軸紡績機を発明し、・・・Spinning Jenny・・・と命名した(ジェニーという名前はハーグリーブスの妻の名前とされるが、彼の娘の名前から名付けられたとする説もある)。・・・ジェニー紡績機は木綿の緯糸の生産には十分だったが、経糸に使える品質の糸は生産できなかった。高品質の経糸用の糸の生産を機械化したのはリチャード・アークライトである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%B9
⇒「継続的な技術開発に対する多大な・・・投資がイギリスにおいて・・・実行」されたのは「産業革命」期に限らなかったはずであり、そのことは、産業「革命」などなかった、というかねてからの私の指摘に帰結します。
ここでも、トゥームズは、修辞的ミスを犯しています。(太田)
トゥームズにとっては、大英帝国は、「悪(bad)、善(good)、及び可もなく不可もない(indifferent)ことからなる」ところの、一つの巨大な複雑な現象だったのだ。
⇒帝国主義ないし植民地主義の評価は、本来、地域ごとに、植民地にされなかった場合との比較においてなされるべきですが、それは不可能である以上、イギリス以外の諸国の、概ね同じ時期の帝国主義ないし植民地主義との比較においてなされるべきでしょう。
かかる観点からすれば、私が何度も指摘しているように、日本>イギリス>欧州/米国、ということになります。(太田)
それを紛れもない悪(evil)であると見る人々に対しては、彼は、「英国の覇権に対する真の代替物は、多分(probably)他者達による諸征服、ないしは、恐らくは(perhaps)全球的無政府状態、であったことだろう、と反駁する。」(B)
⇒「他者達による諸征服」については上述の通りであり、それが日本によるものであれば、植民地にされた地域にとってより裨益的であったことでしょうし、「全球的無政府状態」についてはナンセンスでしょう。(太田)
・イギリスの世紀
「1815年から1914年にかけての期間は、「良かれ悪しかれ、イギリスが人類の共通の生活に恒久的な影響を及ぼした時代」だったけれど、それは、同時に、「我々の歴史の中で我々が最も相反する感情を抱いている時代」でもある。
トゥームズは、含みのある(loaded)3つの諸形容詞であるところの、ディケンズ的(Dickens<(注6)コラム#1017、1721、2984、3135、3649、3663、3701、4213、4539、4789、4923、5953、7273)>ian)、ヴィクトリア朝的(Victorian)、及び、帝国的(Imperial)、の諸プリズムを通じて「このイギリスの世紀」を探索する。
(注6)むさ苦しく(squalid)貧困にうちひしがれた(poverty-stricken)、或いは、陽気さ(jollity)と上機嫌(conviviality)で特徴付けられる、もしくは、異様に(grotesquely)に滑稽な(comic)
http://www.thefreedictionary.com/Dickensian
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens。1812~70年)。(以下、典拠が示されていないが、英語ウィキペディアの引き写しでもなく、なかなか秀逸(太田)→)「幼少時の貧乏の経験からおのずと労働者階級に同情を寄せ、時に過度に感傷的になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。その点、ヴィクトリア朝の代表作家として並び称され、中・上級階層を中心に描いたサッカレーとは対照的である。・・・作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件ではカーライルなどと共に総督・・・側に組して、反乱を擁護し<総督>を弾劾するミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されているわけではない。・・・
ディケンズ自身は・・・一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウェストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BA
⇒言い得て妙ですね。(太田)
それは、「恐らくは、工業化された社会において見出されたことのない、最も小さな中央政府機構(machinery)」を持ちながらも、「イギリスのリベラル達によって非難される欧州のあばら家的な(ramshackle)絶対主義諸国家に比べてはるかにより介入的(intrusive)で効果的」だった、と。
それは、「それまでのいかなる国(nation)よりも前向き(outward looking)であって、かつ、その日常生活において世界のより多くの部分に、より関与した、と。
⇒ここは同感です。(太田)
ヴィクトリア女王は、「衒学的でも人種主義者でも狭量(insular)でもなかったし、ヴィクトリア朝的偽善なるものは概ね神話だった」と。」(B)
⇒ヴィクトリア朝的性意識だけは、少なくとも偽善でした。(太田)
(続く)
新イギリス史(その3)
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