太田述正コラム#0293(2004.3.19)
<マレーシアの思い出(その1)>
1 マレーシア訪問
1999年3月、私は官房審議官として防衛庁を代表し、クアラルンプールで開催されたマレーシアとの初の防衛定期協議に臨みました。
私は互いに脈絡のない、様々な業務をいくつも所管しており、この定期協議に臨むにあたって、大慌てで一夜漬けの勉強をして日本を出発しました。
現地では、マレーシア国防省で防衛定期協議をアジザ・アボド防衛政策局長以下と行ったほか、マレーシア側主催の昼食会と日本側主催の夕食会に出席しました。また、国軍士官学校とマレーシア戦略・国際研究所(ISIS=The Institute of Strategic and International Studies Malaysia)を訪問しました。そのほか、クアラルンプールの市内の名所を訪問したり、英国国防省のカレッジ同期生(警察庁刑事局長、矯正局長を経て退職)と旧交を温めたりしました。
2 マレーシアで感じたこと
これは私にとってマレーシアへの初訪問でしたが、びっくりしたことが沢山ありました。
まず、感心したことの方から。
ア マハティール首相のプミプトラ政策(マレー人優遇政策)は、公務員の昇任面でもとられているというのですが、それにもかかわらず、国防省の中枢である防衛政策局長(イエーメン人2世)も同局ナンバー2である防衛政策課長(インド人2世)のいずれもマレー人ではないところが、絶妙だと思いました。
また、防衛政策局長のアボドさんが女性であることにも感銘を受けました。
イ 行きはJAL、帰りはマレーシア航空のいずれもエグゼキュティブ・クラスだったのですが、マレーシア航空の方が、むしろ乗務員の教育訓練が行き届いているぐらいの感じがしました。
次は、首を傾げたことです。
a 1998年11月のAPEC非公式首脳会議の際、小渕首相(当時)が宿舎から会場にむかっていたところ、先導していたマレーシア人警官乗車の白バイが道に迷ってしまい、案内を買って出た別の白バイの先導で再び動き出したのはいいのですが、今度はその白バイが交通事故を起こしてしまって首相一行が頭を抱えた、というのです。どうやら、外国からの要人が多すぎてクアラルンプールの警官が足らなくなり、小渕首相一行には、クアラルンプールに不案内な地方の警官が割りあてられたことによる椿事だったようです。(日本大使館員から聞いた、報道されていない話。)
b 私のクアラルンプール空港到着時にマレーシア国防省からも出迎えがあるはずでしたが、誰も現れませんでした。しかも、出迎えができなかったという事実が、防衛政策局には伝わっていませんでした。また、国軍士官学校を訪問する時も、国防省から先導車が迎えに来るはずだったのが現れず、仕方なく我々の車だけで出発したのですが、同乗していた日本のマレーシア駐在武官も道順がうろ覚えであったため、道を間違えつつ、ようやくの思いで士官学校にたどりつきました。
c 防衛政策局は、会議の席上、再三誤った事実に基づく発言を行いました。例えば、(マレーシア国防省と日本の海上保安庁の間で海図についての会議が持たれたばかりだというのに)防衛庁を代表するわれわれに向って海図の話を提起したり、マレーシア国防省所管のPKO訓練センターが活動停止中であるにもかかわらず、活動しているという前提で議論したり、です。
d 一方では、クアラルンプール空港(設計は黒川紀章氏)のすばらしい外観及び機能性、またクアラルンプール市街地のペトロナスタワー(当時アジアで一番背の高いビル)を始めとする高層建築群の超近代性と美しさ、他方では、国防省等の中央官庁の入っているビルのみすぼらしさや国立博物館の建物及び陳列内容の貧弱さ、の落差に目を見張りました。
以上を踏まえて、私が当時組み立てた仮説をご紹介しましょう。
(続く)