太田述正コラム#7340(2014.12.3)
<ギリシャとチャーチル(その1)>(2015.3.20公開)
1 始めに
少し前に(コラム#7333で)紹介した、戦後直後のギリシャについての記事を詳細化した記事
http://www.theguardian.com/world/2014/nov/30/athens-1944-britains-dirty-secret
をガーディアン(オブザーバー)が掲げたので、そのさわりをご紹介しておきます。
2 ギリシャとチャーチル
「70年前の今週・・・、まだドイツと戦争をしていたところの、英軍が、3年間にわたって英国と同盟関係にあったパルチザン達を支持する、デモをしていた一般住民の群集に向かって、発砲するとともに、ナチスと協力してきた地元民達(locals)に発砲するための諸銃を与えた。
この群衆は、ギリシャ、米国、英国、及びソ連の国旗群を掲げ、戦時中の同盟関係を是認して(in endorsement of)、「チャーチル万歳(viva)、ローズベルト万歳、スターリン万歳」と唱和していた<というのに・・>。
その大部分が若い男の子や女の子であったところの、28名の一般住民が殺され、何百人もが負傷した。・・・
<これは、デケムヴリアナ(Dekemvriana)(注1)と呼ばれている。>
(注1)12月諸事件(December events)。1944年12月3日から1945年1月11日までの間にギリシャのアテネで起こった一連の軍事的衝突。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dekemvriana
ウィンストン・チャーチル首相は、彼が戦争中ずっと支援してきたレジスタンス運動である、民族解放戦線(National Liberation Front=EAM)の中の共産党の影響が、彼の計算よりも強くなり、ギリシャ国王を権力の座に復帰させるとともに共産主義を寄せ付けないようにする(keep at bay)、という<彼の>計画を危うくさせるに十分なほど大きくなったと考えた。
そこで、彼は忠誠対象を変更し、ヒットラーの支持者達を支援し、彼自身のかつての同盟者達に敵対することにしたのだ。・・・
この裏切りの遺産は、爾来、ギリシャに憑りついてきた。・・・
この1944年の蜂起と<その後の>1946~49年の内戦期は、<ギリシャの>現在に染み込んでいる(infuse)のだ。・・・
第二次世界大戦前は、ギリシャは、王党派の独裁制・・その記章である、ファシストの斧(fascist axe)<(注2)>と王冠が、ひとたび戦争が始まった時の股裂(dichotomy)をよく表現していた・・の下にあった。
(注2)イタリアのベニート・ムッソリーニの下でのファシズムのもともとの象徴はファシーズ(fasces)だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fascist_symbolism
http://en.wikipedia.org/wiki/Fascist_symbolism#mediaviewer/File:Italian_Fascist_flag_1930s-1940s.svg ←図
ファシーズは、「(古代ローマの)束桿(そつかん) 《たばねた棒の中央に<斧>を入れて縛った権威標章; 執政官など高官の先駆である役人が捧持した》」
http://ejje.weblio.jp/content/fasces.
すなわち、独裁者のイオアニス・メタクサス(Ioannis Metaxas)<(注3)>将軍は、帝政ドイツで陸軍士官としての訓練を受け、他方、<エリザベス女王の夫である>エディンバラ公フィリップ(Philip)<(注4)>殿下の叔父である、ギリシャ国王のゲオルギオス<(George)>2世<(注5)>は英国に愛着を抱いていた。
(注3)1871~1941年。「ギリシャ王国の軍人、政治家。1936年から1941年の死までギリシャの首相を務めた。・・・
<彼は、>1913年参謀長に任命され将官に昇進した。
王党派であった彼は時の国王コンスタンティノス1世を補佐し、第一次世界大戦への参戦には強く反対した。連合国支持派であった首相のエレフテリオス・ヴェニゼロスは、英国のガリポリ戦役の援助を王に拒否されると、職を辞任し、政争化する構えを見せた。1915年の選挙に勝利したヴェニゼロスは軍を動員したが、国王によって命令は取り消された。その結果、軍や民衆の間に国王への不満が募り、1916年8月にヴェニゼロス派の軍人がテッサロニキで反乱を起こした。ヴェニゼロスの革命政権は連合国の支援とクレタ島からの60,000の兵士を用いて国土の過半を制圧し、連合国陣営で第一次世界大戦に参戦した。1917年6月には国王は亡命、ヴェニゼロスは臨時政府の首相として6月29日同盟国側に宣戦を布告した。
メタクサスは国王とともにギリシャを離れ、1920年まで海外で暮らした。1922年に君主制が撤廃されるとメタクサスは政治家となり、自由言論党(Party of Free Opinion)をおこした。
1935年になると王政が復古され、コンスタン<テ>ィノス(Constantine)1世の子ゲオルギオス2世が即位した。政治的な混乱の中で行われた1935年の総選挙<の結果、均衡した>・・・左右両派の対立が激化し、さらにはギリシャ共産党(KKE)が議席を獲得したこともあり、国王は当時陸軍相であった反共主義者のメタクサスを暫定的な首相に任命した。
6月になり国内の不安が広がっていくと、メタクサスは非常事態宣言を出し、議会を停止、憲法の無期限無効化を宣言した。1936年8月には彼は独裁者としての権力基盤をかためた。メタクサスは野党を非合法化しその指導者を逮捕、15,000人あまりを獄中または国外に追放した。
メタクサスは国内の統制を強めるためにファシズムの手法を真似たが、地中海の覇権を握っている伝統的な友好国イギリスとも友好関係を維持していた。1939年に第二次世界大戦が始まると、メタクサスは中立的立場を維持しようと試みた。しかしバルカン半島における勢力の拡大を狙っていたムッソリーニは、ギリシャがイギリスに傾くのを恐れていたこともあり、1940年にギリシャ内におけるイタリア軍の自由行動権を求めた最後通牒を突きつけた。10月28日にメタクサスはこれを拒否し(返答の電報は“OXI”(否)の一言だった)、イタリアはギリシャに対し宣戦を布告した。メタクサスは巧みな防御戦術によって伊軍の進撃を停滞させ、英軍の支援によってアルバニア国境にまで戦線を押し戻すことに成功する。
戦いの最中、メタクサスは1941年の1月29日咽頭癌の症状が悪化し、アテネで死亡した。<その後、>ナチス・ドイツ軍<によって>・・・4月29日にアテネが占領され、国王と政府は海外に亡命した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B9
(注4)1921年~。「ギリシャおよびデンマーク、ノルウェーの王家であるグリュックスブルク家(正式には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家)出身。ギリシャ王国の第2代国王ゲオルギオス1世の四男アンドレオス王子とバッテンベルク家出身のアリスの長男として・・・ギリシャ王国、コルフ島<で>・・・誕生。・・・ヴィクトリア英女王の玄孫・・・第二次世界大戦のビルマ戦線でその名を馳せたで初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵ルイス・マウントバッテンは母方の叔父にあたる。フィリップは、父アンドレオスと同様「ギリシャ王子およびデンマーク王子 (Prince of Greece and Denmark)」の称号を有していたが、エリザベス王女との結婚にあたりこれを放棄している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97_(%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%A9%E5%85%AC)
(注5)1890~1947年。ギリシャ国王:1922~24年、1935~47年。「[ゲオルギオス1世の長男である]ギリシャ王太子コンスタンティノス(後のコンスタンディノス1世)の長男としてアテネ郊外・・・に生まれた。母はドイツ皇帝フリードリヒ3世の娘ゾフィー。18歳になるとプロイセンで軍事訓練を受け<た。>・・・王位を継承した。1923年、政府によって、国会が将来の政治体制を決定する間ギリシャを離れるよう要請された。亡命を強いられたゲオルギオス2世は王妃の故国ルーマニア、後にイギリスに赴き、また時に母の住むフィレンツェで亡命生活を送った。ギリシャ政府は1924年3月25日に共和制を宣言したが、1935年には君主制の復活が支持され、ゲオルギオス2世はギリシャへ帰還した。
1939年に第二次世界大戦が開戦した当初、ギリシャは中立の立場を取ったが、1940年、ムッソリーニ<の要求>・・・に対し、親英感情を持つゲオルギオス2世とイギリスとの友好関係を維持したい首相イオアニス・メタクサスはこれを拒絶した。これによりイタリアから宣戦布告がなされ、ギリシャは連合国側で参戦することになった(ギリシャ・イタリア戦争)。メタクサスの戦術やイギリス軍の支援によって、イタリア軍の侵攻を押しとどめていたが、ユーゴスラビアを攻略したナチス・ドイツが、1941年4月23日にギリシャを侵略すると再び亡命を強いられ、クレタ島とエジプトを経由してイギリスへと向かった。
ギリシャが連合国により解放されると、1946年11月28日に再度王位に就いた。
1947年、アテネの宮殿で心臓発作を起こして崩御した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%8E%8B) ([]内)
⇒ドイツで教育(軍事訓練)を受けたという点では、ゲオルギオス2世も同じですし、また、二人とも親英だったのですから、二人の記者が一緒になって書いたこの記事のこのくだりはおかしいですね。(太田)
(続く)
ギリシャとチャーチル(その1)
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