太田述正コラム#7344(2014.12.5)
<ギリシャとチャーチル(その2)>(2015.3.22公開)
他方、ギリシャの左派は、<アテネの外港の>ピレウス(Piraeus)<(注6)>のスラム群と労働者階級のアテネ人達の中に詰め込まれていたところの、小アジアからやってきた、政治化した避難民達及びリベラルな知識人達、の巨大な流入によって強化されていた<(注7)>。
(注6)「紀元前493年、アテネの政治家テミストクレスが・・・海軍基地として建設した。 ペリクレスの時代には、・・・市街が碁盤の目状に整備された。また、・・・アテネと・・・ピレウスの間の街道が両都市を囲む城壁から延長された2枚の城壁が築かれ、一種の双子都市として防御されていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B9
私が、小3の1957年の夏に、日本郵船の貨客船にアレキサンドリアから乗船し、地中海クルーズの一環として、ピレウス港に寄港し、上陸してアテネ観光を行った思い出深い場所だ。
(注7)その背景は次の通り。
「<第一次世界大戦後、>連合国と<オスマントルコ>政府はセーヴル条約を調印した。この条約では東アナトリアにおけるクルド人自治区およびアルメニア人国家の樹立、東トラキアおよびエーゲ海諸島のギリシャへの譲渡、イズミルを中心とするアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域はギリシャの管理区とした上で住民投票により帰属を決定することとなった。また、イスタンブルおよび両海峡周辺は海峡管理委員会の保護下に置かれることになった。・・・トルコ人国民国家の樹立を目指す<ムスタファ・>ケマルはトルコ人居住地区の分割、特にギリシャのイズミル占領に強く反発した。・・・
<その後、トルコ側がギリシャ側に勝利した希土戦争 (1919年-1922年)を経て、>1923年7月に・・・旧連合国とトルコ・・・、周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミルはトルコ領となり、ギリシャ、トルコ間の現国境が確定した。さらにこの条約では、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定した。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。例外として、イスタンブルの正教徒コミュニティーとギリシャ領トラキア (西トラキア)におけるイスラム教徒は居住を許された。・・・
<その後、希土戦争に勝利した>トルコでは・・・22年のスルタン制<(オスマントルコ)>廃止、23年の共和国建国<へと、また、>・・・敗北したギリシャでは、・・・<1922年に>クーデターが発生し・・・戦争を押し進めた国王コンスタンティノス1世は再び退位させられ、ゲオルギオス2世が即位<へと、歴史が進行する。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%8C%E5%9C%9F%E6%88%A6%E4%BA%89_(1919%E5%B9%B4-1922%E5%B9%B4)
独裁者と国王の二人とも、熱烈な反共主義者であり、メタクサスは共産党、すなわち、KKE、を禁止し、その構成員達及び支援者達、そして「民族的イデオロギー」を受容しない者は誰であれ、を諸収容所や諸牢獄に投獄して拷問したり、国内亡命へと送り出した。
ひとたび戦争が始まると、メタクサスは、ムッソリーニの降伏せよとの最後通牒を受容するのを拒否し、英希同盟への忠誠を誓った。
ギリシャ人達は、勇ましく戦い、イタリア人達を敗北させたが、ドイツ軍に抵抗することはできなかった。
1941年4月末には、枢軸国の諸軍は、この国に厳しい占領を押し付けた。
ギリシャ人達は、最初は自然発生的に、後には、組織された諸集団として、抵抗した。
しかし、英特殊作戦本部(British Special Operations Executive=SOE)は、「占領に対する抵抗を決めるのが、右翼と王党派達は、彼らの敵対者達よりも遅かったので、殆んどものの役に立たない」、と記していた。
しかるがゆえに、英国の本来的諸同盟者は、EAM・・KKEが支配的ではあったが決しての全部ではないところの、左翼と農業諸政党の同盟・・、及び、そのパルチザン軍事部門たるELASだった。・・・
1944年秋には、ギリシャは占領と飢饉によって荒廃(devastate)していた。
人口の7%にあたる50万人の人々が亡くなっていたのだ。
しかし、ELASは、何ダースもの村々を解放し、政府の前駆形態になっており、公式の国家が衰死する一方で、この国の処々の行政を行っていた。
・・・ドイツ軍撤退後に、ELASは、その50,000人のパルチザン達を首都<アテネ>の外にとどめ置き、1944年5月には、英軍諸部隊の<アテネ>到着、及び、自分達の兵士達を、司令官たるロナルド・スコビー(Ronald Scobie)<(注7)>中将の下に置くこと、に同意した。
(注7)Sir Ronald MacKenzie Scobie(1893~1969年)。1914年に英陸軍に入ったたたき上げ。1943年12月に第3軍団[・・2個師団等からなり、第一次と第二次世界大戦の間だけ設置・・]司令官になり、ギリシャに派遣され、ドイツ軍と戦った。そのままギリシャ内戦に巻き込まれ、1946年まで、在ギリシャ英軍の司令官を続けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_Scobie
http://en.wikipedia.org/wiki/III_Corps_(United_Kingdom) ([]内)
ドイツ軍がアテネからいなくなったのは、10月12日だった。・・・
(続く)
ギリシャとチャーチル(その2)
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