太田述正コラム#7350(2014.12.8)
<ギリシャとチャーチル(その5)>(2015.3.25公開)
共産主義者達が革命の用意をしているという英国の観念は、1944年10月9日にモスクワでチャーチルとソ連の兵站部長(commissar)たるヨシフ・スターリン(Josef Stalin)との間ででっちあげられた(forged)、いわゆる、パーセンテージ協定(Percentages Agreement)の文脈の中でとらえられなければならない(fall within)<(注16)>。
(注16)「1944年10月のモスクワ会談(・・・Moscow Conference (1944))において<英国・ソ連>間で合意された、第二次世界大戦後の<欧州>における勢力範囲を定めた協定。・・・
10月、チャーチルとイーデンはモスクワを訪れ、・・・スターリンと協議を開始した。・・・チャーチルは戦後<欧州>における勢力比率を次のように提案し<たところ、備考のように決着し>た。
対象国 <英国> ソ連 その他 備考
ルーマニア — 90% 10%
ギリシャ 90% 10% — <英国>の勢力には<米国>も含む
ユーゴスラビア 50% 50% —
ハンガリー 50% 50% — 最終的にはソ連80%、その他20%とする
ブルガリア — 75% 25% 最終的にはソ連80%、その他20%とする
しかし<米国>は秘密協定による解決を好ましく思っておらず、ヤルタ会談の最中の1945年2月9日には自由・民主的選挙によって国家の体制を決めるという英ソ両国の保証を取り付けた(<欧州>解放宣言)。この事は<英>勢力圏にとっては不利ではなかったが、ソ連勢力圏にとっては不利となるものであった。ソ連はルーマニアやポーランドでの自由選挙を妨害し、排他的な勢力圏確立を目指した。一方でチャーチルはパーセンテージ協定と解放宣言の板挟みとなり、また軍事作戦で占領した国が、その後の占領行政で排他的な管理権を持つという排他的占領管理が1943年の米英軍によるイタリア占領によって「前例」となっていたこともあり、ソ連に対して抗議できなかった。<英国>は<米国>に接近して事態を打開しようとしたが、<米国>はソ連との関係悪化を懸念し、バルカン問題に積極的に関わろうとはしなかった。やむを得ず<英国>は平和条約の締結によるソ連軍撤退まで、ギリシャ・トルコ以外のバルカン諸国に関与することを断念せざるを得なくなった。
しかしソ連はさらに地中海に対する野心を明らかにしていった。・・・ここにいたってアフリカ・中近東における権益を維持しようとする<英国>と、勢力を拡大しようとするソ連の間で「英ソ冷戦」と呼ばれる状況が生まれ、パーセンテージ協定によってソ連の勢力拡大を抑止しようとするイギリスの目論見は完全に潰え去った。さらにその後も続くソ連の拡大政策は<米国>の警戒をまねき、冷戦へと繋がることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%8D%94%E5%AE%9A
チャーチルが「きわどい文書(a naughty document)」と呼んだところのこの中で合意された諸条項の下で、南東欧州は「二つの勢力圏(spheres of influence)」に切り分けられた。
すなわち、大まかに言って、スターリンは、ルーマニアとブルガリアを取り、英国は、ロシアを地中海から締め出し続けるためにギリシャを取ったのだ。・・・
英国とギリシャ亡命政府は、最初から、ELASの将校達と兵士達は新しい<ギリシャ国>軍には編入しないと決めていた。
チャーチルは、国王を復帰させることを可能にすべく、KKEとの対決(showdown)を望んでいた。・・・
デケムヴリアナが終わるまでに、何千人もが殺された。
2月12日に休戦協定が調印されたが、部分的にであれ遵守された項目は、ELASの動員解除だけだった。
こうして、ギリシャ史において「白色テロ(White Terror)」として知られる一章が幕を開けた。
デケムヴリアナの間に、いや、ナチによる占領の間でさえ、ELASを助けた疑いのある者は、誰であれ、メタクサスの独裁の下でと同様、駆り集められ、彼らの収容、拷問、そしてしばしば殺害、さもなければ悔悛、のために設立された政治犯収容所群(gulag of camps)に送られた。・・・
1946年12月には、ギリシャ首相のコンスタンティノス・ツァルダリス(Konstantinos Tsaldaris)<(注17)>は、英国軍撤退の可能性に直面し、ワシントンを訪問して、米国の支援を追求した。
(注17)1884~1970年。首相:1946.4~47.1、47.8~9。「エジプトのアレクサンドリアにて出生。ベルリン、ロンドン、フィレンツェ、及びアテネ大学で法学を学んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%82%B9
それに応えて、米国務省は、軍事介入のための計画を策定した。
これが、1947年において、後にトルーマン・ドクトリン(Truman Doctrine)<(注18)>・・共産主義が脅威と考えられた場所にはどこであれ軍事力でもって介入する・・として知られることになるところの、トルーマン大統領による声明の基礎を形成した。
(注18)「トルーマン大統領は、<米>議会への特別教書演説で1947年3月12日に<この>宣言を行った。・・・<そして、>1947年5月22日法律に署名し、トルコとギリシャへの軍事と経済援助で4億ドルを与えた。・・・<この>宣言<がな>された背景として、以前からギリシャ内戦に介入してきた<英国>が、その負担の重さからこれ以上介入を続けられなくなったことがある。・・・<米国>がモンロー宣言以来の孤立主義と訣別し<た>・・・点<、>そして、・・・「パックス・ブリタニカ」の完結と「パックス・アメリカーナ」の到来(同時にそれは東側諸国にとっては「パックス・ソヴィエティカ」であった)。この2点を事実上世界に宣言したことが、トルーマン・ドクトリンの重要な意義である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3
⇒上掲の日本語ウィキペディアは、欧米の通説に従って書かれているわけですが、私は、米国は、19世紀末の米西戦争以来、東アジアに軍事介入することによって、(南北アメリカ大陸)孤立主義を放擲した、という考えです。
英国のイニシアティヴでギリシャに回された(be passed in)全ては、冷戦の最初の一斉射撃だった。・・・
デケムヴリアナは地域的紛争ではなく、ここギリシャで熱戦(warm war)として始まったところの、冷戦の始まりだったのだ。・・・
⇒私は、冷戦という概念についても、再考が必要だと思っています。
ロシアと英国は、19世紀以来、グレートゲームという冷戦を「戦って」きたわけであり、英国が米国に変わっただけで、それが再び始まっただけである、と見ることもできるからです。
そのような観点からは、「冷戦」より、「第二次グレートゲーム」と呼んだ方が適切なのではないでしょうか。
更に言えば、この「第二次グレートゲーム」ないし「冷戦」は、ソ連崩壊の1991年からプーチンのロシア首相就任の1999年までの短い「(第二次)デタント」を経て現在も続いている、と見るべきではないでしょうか。
また、グレートゲームそのものも、全体主義勢力と非全体主義勢力の(時々熱戦をはさみながらの)対峙という観点からすれば、ある意味では、16世紀の英西戦争以降、また、間違いなく、18世紀末のフランス革命戦争以降、現在まで断続的に続いていることの一環である、という見方もできそうです。(太田)
我々<の英国>はギリシャを解放したけれど、英国のおかげで戦争に勝利したのはナチス協力者達だった。
そして、その沈殿物(deposit)は、システムの中の桿菌(bacilli)<(注19)>のように、今もなお残っている。」
(注19)「個々の細胞の形状が細長い棒状または円筒状を示す原核生物((真正)細菌および古細菌)のこと。球菌、らせん菌と併せて、微生物を形態によって分類するときに用いられる慣用的な分類群である。・・・自然界の至るところに桿菌は存在しており、その生育環境は菌種ごとに多岐にわたる。一部の桿菌はヒトや動物の常在細菌として、体表面、鼻咽腔、消化管、泌尿器などに生息している。また、一部のものはヒトに対する病原性を持ち、さまざまな感染症の原因になる。代表的な病原性の桿菌には、グラム陽性のものとして、炭疽菌、破傷風菌、ボツリヌス菌、ジフテリア菌、結核菌、グラム陰性のものとして、腸内細菌科(大腸菌、赤痢菌、サルモネラ、ペスト菌など)、緑膿菌、百日咳菌などが挙げられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%BF%E8%8F%8C
「グラム染色・・・とは、主として細菌類を色素によって染色する方法の一つで・・・染色によって紫色に染まるものをグラム陽性、紫色に染まらず赤く見えるものをグラム陰性という。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%9F%93%E8%89%B2
3 終わりに
チャーチルの英国は、16世紀以来の全体主義勢力との(時折熱戦をはさんだ)対峙、ないし、19世紀以来の(時折熱戦をはさんだ)グレートゲームを忘れ、今にして思えば、矮小な全体主義勢力に過ぎなかったナチスドイツ対処に血道をあげ過ぎ、より大きな悪であるロシア、ないしは共産主義に積極的に塩を送った挙句、先の大戦末期ににわかに我に返り、慌ててあるべき本来の軌道に戻したのはよかったけれど、今度は、つんのめり過ぎて、民族主義的なベトナム共産党に比べても、はるかに現在の仏伊の共産党に近い存在であったところの、ギリシャ共産党(KKE)に対して、血腥い弾圧を敢行し、国王、ひいては王政復帰の芽をつぶしただけでなく、ギリシャに極右軍事政権時代を招来してしまったわけです。
しかし、そんな英国に比べても比較にならないくらい愚かだったのが米国です。
その、ロシア(ソ連)を主敵とするグレートゲームへの参画が余りにも遅れたことが、焦った英国の上記つんのめりをもたらしたのですからね。
結局、ギリシャが一種の先例となり、爾後、米国は、世界各地の極右独裁政権ないし極右軍事政権と野合した形でグレートゲームを戦うことになるのです。
(完)
ギリシャとチャーチル(その5)
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