太田述正コラム#7364(2014.12.15)
<近代資本主義とは何か(その6)>(2015.4.1公開)
5 批判
「<奴隷制が不可欠であったというの>ならば、どうして、米国北部の工業家達が奴隷船の終焉を執拗に主張したのだ?
 ベッカートの解答は、それほど説得力はない。
 彼は、「前向きの(forward-looking)」資本家達は、出現しつつあるインド、エジプト、及びブラジルでの生育者達という、より安く、より信頼できる先々から綿を得ることができ、かつ、自分達の綿の諸ビジネスから得られる諸利益でもって、工業家達は、(諸鉄道、鉄の諸事業(works)といった)重工業に再投資することで、富への新しい諸経路を創造することができる、と見ていた。
 しかし、それは、どうしてかくも大勢の英国の資本家達が、米国の南部政府(Confederacy)が敗北するであろうことがはっきりした時点まで、同政府をを支持し続けたのかを殆んど説明できない。
 南北戦争の時まで、他の全球的な綿生育諸地域に<欧州諸国が>入り込むことがいかに難しかったかということに照らしても、それは意味をなさない。
 より我々を悩ませるのは、ベッカートが、奴隷制についての歴史学者達が何十年にもわたって、最初の経験を積んできたところの、核心的問題を回避していることだ。
 一体どうして、英国政府は、まさにその産業革命に綿が燃料をくべていた瞬間において、反奴隷制運動を擁護したのか、という<核心的問題を>・・。
 1787から(英国がそのカリブ海の諸植民地において奴隷制を廃止した年である)1833年の間<(注8)>、英国ほど、反奴隷制十字軍に関与した国はない。
 (注8)1787年は、英国(植民地を含む。以下同じ)に、 奴隷貿易廃止協会(Society for Effecting the Abolition of the Slave Trade)ができた年。そして、1807年には英国で奴隷貿易が廃止され、英海軍がそれを執行し始めた年。また、1833年は、英国で奴隷制が廃止された年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Abolitionism
 この問題について、学者達の見解は分かれている。
 <しかし、>ベッカートはこの問題を提起することすらしない。
 <但し、>ベッカートは、どのように、南北戦争が、「資本主義の歴史にとっての転換点」になったかを巧みに示す。
 南北戦争中の米国からの綿の諸輸入の一時的途絶が、英国をして、綿の新しい諸仕入先として注意を中東と極東に転じせしめたのだ。
 要するに、南北戦争の故に、インドやエジプトのような場所に資本主義が到来した、というわけだ。
 英国はインドを1853年に植民地化したけれど、南北戦争の間に、初めて、英国は国家的な富の源泉としてインドを真剣に受け止めるに至ったのだ。
 英国の植民地政府は、土地を、綿という何らかの財政的価値を持つ唯一の商品を生育するよう事実上強いるところの、課税可能な小区画群へと小さく切り分けた。
 すぐさま、インドの田舎は、全球的綿経済の中へと吸い込まれていったが、インドの人々にとって、その諸帰結はひどいものだった(devastating)。
 インド人達は、全球的交換諸市場で綿の価格が急降下するたびに、繰り返し諸飢饉に襲われた。
 インドの綿農民達は、1870年代には1,000万人、そして、1890年代には、更に、1,900万人が諸飢饉によって亡くなった。
⇒米国に帰化したとはいえ、欧州人たる母斑はくっきりと残しているのでしょう。
 ベッカートの、資本主義批判の名を借りた、アングロサクソン文明批判、は、それが、できそこないのアングロサクソンである米国「文明」であれ、本家本物の純正アングロサクソン文明であれ、辛辣極まりないものがあります。
 この書評子のベッカート批判は、そんなベッカートの前傾し過ぎた論理展開に一矢を報いた、ということ以上でも以下でもありますまい。(太田)
(続く)