太田述正コラム#7366(2014.12.16)
<近代資本主義とは何か(その7)>(2015.4.2公開)
英国が、その全てを、綿と資本主義の名において、インドにおいて完全なものにしたところの植民地システムは、他の非欧州諸国もすぐに真似(emulate)するところとなった。
 19世紀末には、日本が、朝鮮、及び、支那の諸部分を植民地化し、それらを自身への未加工綿の供給者群へと変えた。
 オスマントルコも同じことを中東の諸部分で行った。<(注9)>
 (注9)日本についての記述はやや不正確↓
 「明治20年代、日本は紡績業を振興するため、綿花の関税をゼロにした。そのため、国内における綿花の栽培はほぼ皆無となった。・・・<そこで、>朝鮮半島や中国でアメリカ綿の栽培を進め・・・たが・・・なかなか成果があがらなかった。」
https://books.google.co.jp/books?id=s7SbBAAAQBAJ&pg=PT121&lpg=PT121&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%EF%BC%9B%E7%B6%BF&source=bl&ots=ERItp6YIUf&sig=LfUybR1mvg75LWi9AkCcS2YDfXc&hl=ja&sa=X&ei=kAaQVNSeNJWC8gXF-4LYDQ&ved=0CCsQ6AEwAg#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%EF%BC%9B%E7%B6%BF&f=false
だが、オスマントルコについての記述はほぼ正確だ。(なお、エジプトは著名な綿生育地だが、実質的に独立国になっていたので、含まれていない。)↓
 「16~17世紀にはエーゲ地方、南部アナトリア地方、シリア北部などで綿花栽培が盛んとなり、スルタンの肝いりで高品質なエジプト綿花の種が南部のチュクロヴァ平原にもたらされた。
 19世紀にはいると、オスマン帝国の繊維産業は産業革命に伴う廉価な英国製衣類の流入によって、大打撃を受ける。しかし、19世紀末の欧州での経済危機と<オスマン>帝国の人口増加をきっかけに1870年代には回復、20世紀初頭の15年間でチュクロヴァの綿花生産は3倍に拡大した。」
https://www.jetro.go.jp/jfile/report/05001301/05001301_001_BUP_0.pdf
 なお、チュクロヴァは、「トルコ南部・・・<の>平野。古名キリキア[の一部]。アナトリア内陸部とメソポタミア地方を結ぶ通商路に位置するため,古くから諸民族の争奪の的となってきた。1515年以降オスマン帝国領土となったが,第1次大戦後チュクロ<ヴァ>の一部がセーブル条約にもとづいてフランスに割譲された。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%90-1185475
 キリキア(Cilicia)「はチュクロ<ヴァ>平野・・・と、それを囲むトロス山脈などの山脈部でできている。そのため、古代ギリシャの歴史家ストラボンはこの地域を「山地のキリキア」(Cilicia Trachea)と「平地のキリキア」(Cilicia Pedias)とに分けて考えた。とくに平野部は、大部分が高原や山地で構成されるトルコの領土のなかで数少ない平地・・・<であり、>聖パウロの生誕地であるタルスス(タルソス)の町があることで知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%82%A2 ([]内も)
 しかし、これらの新しい綿の有力生育地群(powerhouses)は、英国自身の綿工業を着実に弱体化させて行くことになる。
 欧州の綿資本家達を後退(undo)させたのは、単にこの競争だけではなく、次第に増大する、英国内及び欧州での労働者階級の力だった、とベッカートは主張する。
 20世紀初においては、綿資本家達の同盟相手たる国家がその敵へと転じるや、欧州諸国は、次第に労働改革を受け入れることを吝かとしないようになった。
 第一次世界大戦の終わりには、欧州の経済にとっての綿の重要性は顕著に縮小した。
 しかし、綿は、出現しつつある非欧州諸国の誕生において、中心的役割を演じることになる。
 植民地インドでは、綿は植民地搾取、及び、そのポスト植民地としての将来のための希望、の双方の象徴になった。
 英国統治下で出現したところの、現地で生まれた少数の選良たる綿資本家達は、1930年代には、綿生育者達と団結(unite)して、大英帝国の支配を覆そうとし始めた。
 自分達の綿工業のコントロール権を獲得するのが彼らの団結の目的となったのだ。
 <かくして、>今日に至るまで、糸車(cotton wheel)は、インドの国旗の紋章(emblem)であり続けている。<(注10)>」(A)
 (注10)完全な間違い:「<英国>からの独立を目指したガンディーは、1921年にインド国民会議に対してスワラージの象徴としての旗のデザインを提案した。最初の旗は白・緑・赤のストライプに、スワラージの中心であった「糸車運動」に使われた糸車を配したものであった。1931年に国民会議は新たなスワラージ旗を策定した。それは現在のインド国旗と同じサフラン・白・緑のストライプに、青の糸車を配したものであった。
 1947年・・・にインドはインド連邦として独立することとなったが、制憲議会においてインド国旗の制定作業が行われた。・・・国旗制定委員会は・・・国旗のシンボルは特定の共同体や運動を代表するものであってはならないという判断により、糸車のかわりにダルマを意味するアショーカ・チャクラを配することとなった。ガンディーは糸車の排除に不服であったが結局これを受け入れた。7月・・・の制憲議会で満場一致で採用が可決された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
⇒書評を書く際の書評子のケアレスミスというよりは、そのつんのめりの執筆姿勢からして、この本を書く際のベッカートによる意図的誤記ではないか、と私は疑っています。(太田)
6 結論
 「依然不十分であれ、虐げられた人々(downtrodden)の歴史は語られてきた。
 我々に必要なのは、彼らを抑圧するためにやってきたところの、それが生み出した、諸不平等、富、そして暴力を伴ったシステムが、どのように、そもそも出現したのかを、短い言葉で説明する新しい諸歴史だ。
 ベッカートのヴァージョンは、この資本主義の新しい歴史における最後の言葉ではないかもしれないが、傑出した(exceptional)出発点であることは確かだ。」(A)
7 終わりに
 industryを産業と訳すか工業と訳すか、随分迷わされたシリーズでした。
 私は、産業革命はなかったという説に与しているわけですが、industrial revolutionを、産業革命ではなく、工業革命と訳せば、動力が水力から化石燃料に変わったのは革命と言えるのかもしれません。
 それこそ、水力利用は神代の昔からあった一方で、現代社会はなお化石燃料で基本的に動いているのですからね。
 いずれにせよ、動力が化石燃料に変わった以降の歴史は、軽工業の時代、重工業の時代、情報工業の時代、に分けられそうであり、軽工業の時代、すなわち、綿工業の時代のシステムとそのおぞましさを明らかにし、米英を断罪したベッカートを、私は高く評価したいと思います。
 もとより、彼のつんのめりによる歪曲や誤りは看過すべきではありませんが・・。
 ベッカートのおかげで、改めて感じたのは、長期的利益を追求するという点では共通しているところの、そのために、工業化の時代において、むき出しの暴力を用いる米国であれ、そのために暴力行使を最小限にとどめる英国であれ、何とまあ天文学的な人権蹂躙・・米国の場合は奴隷制による人間の尊厳の蹂躙、英国の場合は、商品作物生育への誘導による間欠的な人間の生存権の蹂躙・・をやってのけたものだ、という思いです。
 この米英の成功に嫉妬し、焦燥感にかられて米英に追いつき追い越そうとした欧州諸国が、植民地で原住民の虐殺を重ね、そしてまた、ナポレオン戦争や、第一次/第二次世界大戦の過程で天文学的な数の人々を死に追いやったことにも、米英は道義的責任があります。
 そして、この欧米諸国とは丸で違って、日本の工業革命が、近隣地域の植民地化や保護地域化を伴いつつも、実に高い志の下で、しかも、円滑かつ効果的に遂行されたことについても、改めて想起させられた次第です。
 
(完)