太田述正コラム#7368(2014.12.17)
<新イギリス史(続)(その1)>(2015.4.3公開)
1 始めに
先般(コラム#7324~で)取り上げた、ロバート・トゥームズ(Robert Tombs)の『イギリス人と彼らの歴史』の新しい書評が一つその後出ている
http://www.theguardian.com/books/2014/dec/13/the-english-and-their-history-by-robert-tombs-unfashionably-upbeat
(12月14日アクセス)ので、ご紹介しましょう。
2 イギリス史の本としての特徴
(1)総論
「<トゥームズは、>イギリスの人々の自分達の歴史との関わりについての議論<を行っているところ、>それは沢山の諸形態をとることができるが、トゥームズは、それらのうちの大部分を例示(sample)している。」
(2)著名なイギリス史家の紹介
「その一つは、道の諸駅として、最も銘記すべき歴史解釈者達を用いて、イギリス史が辿った経路を描く(plot)ことだ。
こうして、我々は、この半ば島国<たるイギリス>の物語について、ベーダ(Bede)<(注1)(コラム#74、2764、3724、6751)>から、マームズベリのウィリアム(William of Malmesbury)<(注2)>とクラレンドン伯爵(Earl of Clarendon)<(注3)>を経由して、マコーレー(Macaulay)<(注4)(コラム#1794、5286、5352、5958)>、トレヴェリアン(Trevelyan)<(注5)>、(イギリス史の再解釈者としてだけでなくイギリス史の形成者(shaper)としての)チャーチル(Churchill)、そしてそれ以降のEP・トムソン(EP Thompson)<(注6)>とニオール・ファーガソン(Niall Ferguson)に至るまで、<の面々が語ったこと>を追いかける(follow)。」
(注1)Beda Venerabilis(672/673~735年)。「<イギリス>のキリスト教聖職者<にして、イギリス最初の>歴史家・・・<。彼は、>7歳で・・・修道院に入り、17歳で輔祭に、30歳で司祭となった。・・・ベーダは多くの著作を残した<が、>・・・今日ベーダの主著として知られるのは『<イギリス>教会史』・・・である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B9
(注2)マームズベリのウィリアム(1095?~1143年)。「<イギリスの>歴史家・ベネディクト会修道士。ノルマン人とアングロ・サクソン人の混血として生まれ、幼くして<イギリス>南西部のマームズベリ修道院に入って学問に励み、長じて同修道院の図書館司書を務めながら、<イギリス>各地を旅行して、その知識・経験を元に多くの歴史書を著した。1125年頃までに<イギリス>の王国史を扱った『歴代<イギリス>王の事績』(Gesta Regun Anglorum)と教会史を扱った『<イギリス>司教たちの事績』(Gesta Pontificum Anglorum)を著し、その後1125年から1142年までの同時代史を扱った『現代史』(Historia Novella)を著した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0
マームズベリは、イギリス南部のコッツウォルド(Cotswolds)地方の南部のウィルトシャー(Wiltshire)州に位置する市場町で、アルフレッド大王の勅許状(charter)によって生まれたところの、イギリス最古の自治都市(borough)。〈ストーンヘンジにも近く、〉現在、電機メーカーのダイソンの本社がある。マムズベリ修道院(Abbey)は、[1536~41年にヘンリー8世によって行われた]修道院取り潰し(Dissolution of the Monasteries)を免れたごく少数の修道院の一つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Malmesbury
http://en.wikipedia.org/wiki/Dissolution_of_the_Monasteries ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC (〈〉内)
(注3)Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon(1609~74年)。「<イギリス>の政治家・歴史家。娘アン・ハイドは<イギリス>国王ジェームズ2世の最初の妻で、<イギリス>女王メアリー2世・アンは外孫に当たる。・・・<イギリス内戦>では王党派として活動し、国王軍が議会派に敗れると王太子チャールズ(後のチャールズ2世)に従って大陸へ逃れた。・・・王政復古後の・・・1660年から1667年まで<イギリス>の政治の中心的な役割を担い、<英>国教会主義を中心とし、カトリックには包容の政策をとって統一法を強行した。また自治体法、集会法など一連の反動的諸法を制定した。これらはクラレンドン法典と呼ばれる。1665年に第二次英蘭戦争が始まり、1667年にブレダの和約が結ばれ<イギリス>の劣勢に終わると責任を問われ同年に失脚、フランスに渡り、ルーアンで没した。亡命中に歴史書『大反乱史』を書き残した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E4%BC%AF%E7%88%B5)
(注4)Thomas Babington [or Babbington] Macaulay, 1st Baron Macaulay(1800~59年)。「イギリスの歴史家、詩人ならびに政治家。エディンバラ選出のホイッグ党下院議員だった。ホイッグ史観(現在の視点から過去を判断する態度)を代表する人物であり、マコーリー著『<イギリス>史』・・・<正しくは、>『ジェームズ2世即位からの<イギリス>の歴史』・・・は、今でもイギリスで最も有名な歴史書のひとつである。・・・ケンブリッジ大卒。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
(注5)George Macaulay Trevelyan(1876~1962年)、英国の歴史学者。ハロー校、ケンブリッジ大卒。ケンブリッジ大、ダーラム大教授を歴任。大叔父であるマコーレーのホィッグ史観を信奉した最後の歴史学者、と評される。
http://en.wikipedia.org/wiki/G._M._Trevelyan
(注5)Edward Palmer Thompson(1924~93年)。「<イギリス>の歴史家、社会主義者、および平和運動家。18世紀末から19世紀初頭にかけての、英国のラディカルな社会運動をめぐる著作、『<イギリス>労働者階級の形成』(原著:1963年)<の著者>として最も有名・・・共産党の知識人メンバーの一人であり、 1956年年のハンガリーへのソヴィエト軍の侵攻の対処をめぐって離党・・・1980年代には、<欧州>における反核運動を先導する知識人であった。・・・ケンブリッジ大卒。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3
⇒ここに登場した8名の内訳は、やや単純化して言えば、聖職者2人、政治家3人、歴史学者2人、社会運動家1人と極めて多彩ですが、歴史書の執筆は、歴史学者にまかせておくには余りにも重要である、ということではないでしょうか。
にもかかわらず、イギリスにおいては、(支那や日本等と違って、)政府が作成した歴史書がないことが注目されます。(太田)
(続く)
新イギリス史(続)(その1)
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