太田述正コラム#7376(2014.12.21)
<85歳のウィルソン(その3)>(2015.4.7公開)
(4)結論
「ウィルソンの最近の諸著書は、生物多様性の危機、科学の社会への影響、そして、より包括的な哲学的諸問題(issues)、といった、様々な諸話題に取り組んできた。
<この>『人間の実存の意味』は、これらの線に沿った新たな探索ではなく、どちらかと言えば、短く読みやすい形で彼の<これまで打ち出してきた>諸観念を要約するものだ。」(E)
⇒綜合的思索をすることこそ、高齢者の役割でしょうね。(太田)
「「・・・人間は、進化の一偶然の出来事(accident)として、ランダムな突然変異と自然淘汰の産物として、出現した。
我々の種は、旧世界の霊長目達の一つの系統における紆余曲折の後の一つの終点に過ぎない。」とウィルソンは記す。
ダーウィン後、1世紀半も経っているというのに、米国人の何百万人にとって、このことはニュースなのだ。
だから、実のところ、ウィルソンは、穏やかで熟慮された散文の奥には、雄叫びが横たわっているのだ。
彼の狙いは、進歩的思想家達が、ずっと昔に勝利を収めていたと信じているところの、文化諸戦争に勝利を収めることなのだ。
⇒ご苦労をお察しします、と言ってあげたいのは山々ですが、そんな野蛮人が多数派を占めるような国にとどまって、彼らとのバカバカしい「戦争」にエネルギーを空費するのは止めて、一番いいのは日本だけど、せめて拡大英国のどこかに移住して、より的を絞った思索に耽るべきではないか、とウィルソンに助言したいところですね。(太田)
人間の実存の意味は、一言で言えばこうだ。
「我々は、分かち難く残りの動物王国と繋がっているところの、一進化的な偶然の出来事ではあるけれど、我々は、現在、それを救ったり破壊したりする能力を伴った、「この惑星の頭脳(mind)」なのだ。」」(D)
(5)ウィルソン批判
「<この本の>参照文献群と脚注群の欠如は・・・余りにも無頓着(casual)だ。」(E)
⇒この批判はあたらないでしょう。
この本が「新たな探索」ではなく、過去の諸「探索」の結果の「要約」(的綜合)を試みたものであるとすれば、文献なり脚注については、過去のウィルソンの論文や本でもって代替できる、と私は思います。(太田)
「部族主義(tribalism)は、ウィルソンが呼ぶところの、「旧石器時代の呪い(Paleolithic Curse)」・・何百年にもわたった狩猟採集者の存続のために極めてうまく働いたものの全球的な都市的技術科学的社会においては次第に障害性が高まりつつあるところの遺伝的諸適応・・の諸帰結のうちの一つに過ぎない。」
現在の諸条件には適合的ではないその他の遺伝的諸適応の中には、我々の人種主義への偏好(penchant)、我々の人口増を抑制することの拒絶、我々が直面する諸挑戦、及び、我々の自然環境の荒廃、に見合う尺度における、相互に協力することの失敗、がある。・・・
⇒部族主義<・・ウチ・ソト峻別主義といったところか(太田)・・>が旧石器時代/狩猟採集社会において普遍的であったとは私は考えていません。
私が、当時、普遍的であったと見ているところの、人間主義は、部族主義を超越しているどころか、対象が人間以外の生物、ひいては自然一般にまで及ぶものであるからです。(太田)
ウィルソンは、蟻達・・彼はそれに関する世界の指導的権威だ・・のふるまいと人間の社会的ふるまいとの間の諸類似性(parallels)を指し示しつつも、昆虫達とは違って、人間も本能の奴隷達である、と言明することには慎重だ。
彼が初期の議論を呼んだ彼の本である『人間の本性について(On Human Nature)』(1978年)でやったように、彼は、我々の「ふるまいは強い遺伝的要素(component)を帯びている」、とこの本で主張する。
遺伝的要素は、我々の諸各活動を決定はしないが形成するの<は確か>だ、と。
<しかし、>昆虫達とは違って、我々は我々のふるまいの諸帰結について考えて、違った活動を選択することができる、とも。・・・
我々の諸人生に対する意識的コントロールを行使することを想像することによって安心しつつ(reassured)、我々は我々の種(kind)の繁殖をずっと続けていく。
しかし、物理的諸法則によって完全に支配されている物質的(material)宇宙においては、「究極的真実内」に自由意志は存在しないであろうことを彼はしぶしぶ認める。
だが、そうだとすれば、読者達に、進化理論を抱懐し、地球の生きとし生ける者達の多様性(wealth)を維持し、頑迷な偏見(bigotry)を克服し、戦争をなくすように、と促す意味がどこにあるのか。
どうやったら、我々は、意識的努力によって、諸活動や諸信条を変えることができるというのか。
・・・これは、彼の事業(enterprise)における、一見したところ致命的な欠陥<ではなかろうか。>」(A)
⇒このくだりについては、ウィルソンの考えも書評子の考えも偏りがあると思います。
生来的人間主義者や、長じてから、念的瞑想等の手段を通じて人間主義者に回帰した者は、人間主義にいわば羈束されているわけですが、これをもって、その者に自由意志がないと見るのか自由意志があると見るのかは、どうでもいいのではないでしょうか。(太田)
(続く)
85歳のウィルソン(その3)
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