太田述正コラム#7398(2014.1.1)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その9)>(2015.4.18公開)
「「家門の名誉」意識は、米軍兵士の口から語られることはほとんどなく、日本兵独特の戦闘への動機づけ要因であったといえる。」(166)
⇒これについては、日本人の大部分は、人間主義的であるので、兵士達にあっても、人間主義に反する言動を行うことは、人間主義者に育て上げてくれた両親等の期待に背くことである、という意識があった、つまりは、兵士達は(人間主義的な)規範意識を持ち合わせていたのに対し、米国人の大部分はキリスト教徒で、しかも、敬虔なキリスト教徒が多かったにもかかわらず、キリスト教規範そのものに問題があるのか、その規範が兵士達において必ずしも内面化していなかったことを意味する、と考えてみたらどうでしょうか。(太田)
「日本軍の兵士・・・<は>一様に米軍兵士に対する「感情的な憎しみ」はなかったと語る。自己の生存のためには、敵を殺すしかなかったのである。・・・
かれ<ら>は米軍兵士のことを「アメちゃん」「アメさん」、もしくは単に「敵」と呼んでおり、「アメ公」とか「毛唐」などという人種的な侮蔑の意味を込めた呼び方をしていた者はほとんどいなかった。
筆者が日本軍兵士の口から「毛唐」という言葉を直接聞いたのは、筆者の面会の申し入れを断った米軍の捕虜となった体験を持つ第38師団所属の元兵士からであった。
しかしながら、かれらに中国兵をどのように呼んでいたのかを尋ねると、多くの兵士が「ツンコピン(中国兵の中国語読み発音に近い)」と答えるなかで、「チャンコロ」「ニー公」という人種的な偏見の混じる呼称を用いたと答えた者も少なからずあった。
この点は、米軍兵士の中で日本兵を「ジャップ(Jap)」「ニップ(Nip)」と呼んだり「黄色い野郎(Yellow bastards)」などという人種的蔑視のこもった呼称を用いていたことと共通する。
こうした事実から、日本兵は中国兵に対しては人種的優越感を抱いていたが、米軍兵にはそうした優越感を持てなかった、あるいはむしろ劣等感を感じていたのかもしれないことが推測できる。」(167~168)
⇒この河野の見解は誤りでしょう。
当時の日本人は、支那人との直接的、間接的な接触を通じて、かねてより、支那に対して文明的優越感を抱くに至っていたところへもってきて、支那人による、日貨排斥や(殺傷を含む)在支日本人迫害、に関する報道等を通じて、支那人に対して憤りを抱いている者が少なからずおり、それが、一部日本軍兵士の支那人ないし支那兵に対する蔑称となって表れた、と考えられます。
それに対して、当時の(白人たる)米国人の大部分は、非白人一般に対して強い人種差別意識を抱いており、その意識が、非白人の中で、「自分達にたてついた」日本人に対して最も先鋭化するに至り、その結果、米軍兵士の大部分が、日本兵に対して蔑称を用いていた、と解することができます。
ところが、当時の日本軍兵士を含む日本人の大部分は、米国人との直接的、間接的な接触のないまま、野球や米国映画等を通じて米国文化に親近感を抱きこそすれ、米国に対する文明的優越感も米国人に対する悪感情も抱いていなかったと考えられるのです。
で、米軍の捕虜になった日本軍兵士は、上述の、米国人の大部分が日本人に対して抱く強い人種差別意識に気付き、その中から、米国人に対する嫌悪感を抱くに至ったものが少なからず出現したとしても不思議ではありますまい。
想像するに、このくだりに登場する(元)日本軍兵士は、まさにその一事例であって、河野からそのヒアリングの趣旨を聞き、河野の姿勢に米国事大主義的なものを感じ、それに反発して、ヒアリングに応じなかった可能性があります。(太田)
「「親子以上」の・・・強い連帯感が存在していながら、日本兵には「連帯感」が戦闘への動機づけ要因として明確に意識されることが少ないのだろうか。
この疑問を解く鍵は日米の文化的差異に求められる。
すなわち、一般に、個人主義的傾向の強い米国に育った米兵は戦場で築かれる強固な戦友同士の連帯感を新鮮に感じ、そのためこの「第一次集団の絆」がかれらを戦闘へと同期づける要因として強く意識される。
一方、日本兵にとっては自己の所属する集団内での緊密な連帯感は、なにも軍隊や戦場に限ったことではなく、日常生活においても経験するものである。
そのため、この連帯感は戦場でしか発現しない「特別な現象」として、とりたてて兵士個人に意識されることは少ないのである。」(171)
⇒このくだりに関しては、私も、(珍しくも、)河野の言っていることに同意です。(太田)
「日本軍の兵士の「恐怖心への対処」の事例を整理してみると、「恐怖心」への有効な対処法には大きく分けて「受動的」と「能動的」対処法の二通りがあり、「受動的対処法」は心理的防衛機制により恐怖心そのものを否定してしまう「否認(denial)」、または無意識に「抑圧(suppression)」する方法が典型的な対処法であった。
「抑圧」の定義は「自我にとって危険な耐えられない衝動、それに結びついた記憶、イメージを意識から追放すること、あるいは無意識に押しとどめること」である。
「抑圧」は、恐怖心を感じながらも、それを「意識的に」回避する「抑制(repression)」とは区別される。
「能動的対処法」としては、実戦経験を重ねていくうちに戦闘において危険を回避するスキルを身に付け、不要な不安や恐怖を合理的に除去してゆくという方法、すなわち「戦場への積極的な適応」によって自己の戦闘技能についての自信をつけ、恐怖心を和らげる方法が一般的である。
第二次大戦当時、米軍では戦闘で恐怖心を覚えるのは人間として当然とされ、むしろ恐怖心をいかに有効にコントロールすることが重要かを兵士に教育していた。
一方、攻撃精神が過度に強調され恐怖心を覚えるのは「臆病者」との烙印を押されかねなかった日本軍では「否認」が最も一般的な恐怖心への対処法となったものと考えられる。」(177~178)
⇒大事なことは、第一に、日本兵の大部分が縄文人的であったのに対して米兵の大部分が弥生人的であったことから、前者に関しては、後者とは違って、弥生人的な存在へと意識変革させるべく、特異な各種イニシエーションが必要であったこと、そして、第二に、日本兵が装備(や糧食)の質量ともの劣位の中で米兵と戦闘を行わなければならなかったことから、日米の兵士の、それぞれの、戦術も、従ってまた、「戦闘技能」の重点の置きどころも異ならざるを得なかったこと、であり、河野の言うような、「抑圧」と「抑制」の違いなど、言葉の遊びに近いのであって、どうでもよろしい、というのが私の見解です。(太田)
(続く)
河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その9)
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