太田述正コラム#7400(2014.1.2)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その10)>(2015.4.19公開)
「米軍と同様に日本軍の戦闘組織においても「第一次集団の絆」は、戦闘への非常に強い動機づけの要因だった。
とはいえ、日米両軍を比較してみると、米軍ではこの「第一次集団の絆」が下士官以下の同輩集団間で形成される傾向が強いのに対し、日本軍では指揮官と部下の間でより強固に形成される傾向がみられる。
わかりやすくいえば、米軍では「ヨコの絆」、日本軍では「タテの絆」が強かった、ということになる。」(191~192)
⇒以下、河野は、日本軍の事例を挙げるのですが、米軍の事例を対比させる形で挙げないので、説得力がないこと夥しいものがあります。
勘繰れば、余りにも有名な、(しかし、私見では人間主義論によって乗り越えられなければならないところの、)中根千枝(1926年~)が『タテ社会の人間関係』(1967年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
で展開した、ヨコ社会たる中国、インド、チベット、イギリス、米国、すなわち、世界、とタテ社会たる日本、とを対置する説
http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/socio/lab/koudoku/99/sako.html
を、河野が無批判に踏襲している感が否めません。(太田)
「<ガダルカナルの>一木支隊の第一梯団<の>・・・機関銃・・・中隊の半数を占める「ノモンハン帰り」の兵は、ガダルカナル戦の「火線の激しさ」は「ノモンハンの比じゃない」と感じ、・・<機関銃隊の分隊長だった元兵士>は「バケツに水を張ってガバッとひっくり返すぐらい」の銃砲弾の洗礼に「あれでは助からないですわね」と漏らす。・・・
ガダルカナル戦の敗因については、制空権・制海権の喪失とそれによる補給不足、兵力の逐次投入、拙劣な戦略と白兵突撃に象徴される硬直的な戦術などが指摘されているが、圧倒的な米軍の火力に屈服したというのが戦史家の共通の見解であろう。」(199~200、249)
⇒「日本兵が装備(や糧食)の質量ともの劣位の中で米兵と戦闘を行わなければならなかった」と私が指摘したことを、河野自身が肯んじてくれているわけです。(太田)
「ガダルカナル戦は、ほとんどの米軍兵士にとって「生まれて初めての実戦」であった。
一方、多くの日本軍兵士にとっては、生まれて初めての戦闘体験は中国戦線であり、太平洋戦線は敵を変えての戦闘の継続に過ぎなかった。・・・
<米第>132連隊史は日本兵について、「日本人は人種的に劣っていて、装備も貧弱で、兵士は臆病者ばかりだと米軍の戦闘員は教えられてきた」が、「日本兵は卓越した技能を持つ兵士であり、密林の中の防御陣地はたいがいよくできていた。掩蔽壕の設営は天才的で、巧妙に擬装がほどこされていた。けっして侮ってはならない敵であった」と記述している。・・・
<米第>164連隊<の>・・・小隊長だった<元米兵士>・・・によれば、日本軍の・・・<2種の>軽機関銃・・・にくらべて、米軍の機関銃は重くてジャングル戦には不利だったという。・・・
<また、彼は、>「われわれの機関銃は三脚を使っていたんだが、日本軍は二脚式だった」。米軍の機関銃には・・・<日本軍の>軽機関銃のような銃床(肩にあてる板)もついておらず、拳銃のような引き金部分だけだった。・・・
<更にまた、>「われわれの60ミリ迫撃砲は、直接射撃(水平射撃)ができなかった。・・・。」<とも語った。>・・・
<これらは、全て後に改善されたという。>・・・
<前出の>第132連隊の場合、・・・戦闘1日あたりの戦死者はガダルカナル戦「6.9人」、フィリピン戦「3.0人」となる。
かれらにとってガダルカナル戦がいかに「激戦」だったかがわかろう。」(222~223、237~240、249))
⇒当初は、兵士の錬度と装備の機能性に関しては、戦闘体験の差から、日本軍に優位があったおかげで、装備の質量の圧倒的な差にもかかわらず、敗戦は敗戦でも、日本側もそれなりの恰好のつく戦闘ができたところ、戦闘体験の差がなくなり、更に、装備の質量の差が大きくなるとともに、次第に恰好がつかなくなっていった、ということです。(太田)
「<日本軍の>戦死者と捕虜との比率を見ると、急速に「無降伏主義」の規範が効力を失っていく様子が明確となる。
1944年11月ごろには「100対1」で、圧倒的に戦死者の比率が高かったが、1945年3月には「65対1」となり、4月には「30対1」、・・・5月には「8対1」にまで戦死者の比率は落ち込んだ。・・・
1945年5月には第一独立混成旅団歩兵第239連隊第2大隊長<たる>中佐以下42名がニューギニアで豪州軍に集団投降している。
日本軍はじめての組織的降伏であった。」221)
⇒上述したことからして、恰好がつく戦闘ができなくなればなるほど、日本軍部隊や個々の兵士が、米軍によって一方的に嬲り殺されるよりは降伏を選ぶようになっていった、というだけのことなのに、それについて、河野が、「規範」の崩壊と捉えて日本軍を貶めているのはいただけません。(太田)
(続く)
河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その10)
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