太田述正コラム#7625(2015.4.25)
<皆さんとディスカッション(続x2608)/懸案への取り組み(2回目)>
<太田>(ツイッターより)
 「中国のメディア人が見た日本…日本人は想像していたよりもっと真面目で、もっと文明的だった…
 「事足りればいい」という生活スタイルに深く胸を打たれた。
 資源が比較的乏しい国で、人類がいかに資源を大切にし、資源を最大限、再利用しようとしているのを見ることができた。
 実際、いずれの国にとっても、地球は一つだけしかないものだ。
 もし、日本のように環境に優しく省エネであれば、環境はもっと良くなることだろう。」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0424/c94473-8883389.html
 ←当局の声。
 「日本の抹茶スイーツに「全面降伏」!?…中国ネット民「抹茶の起源は中国なのに」と悔しがる声も…」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%8a%b9%e8%8c%b6%e3%82%b9%e3%82%a4%e3%83%bc%e3%83%84%e3%81%ab%e3%80%8c%e5%85%a8%e9%9d%a2%e9%99%8d%e4%bc%8f%e3%80%8d%ef%bc%81%ef%bc%9f%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%8d%e3%83%83%e3%83%88%e6%b0%91%e3%80%8c%e6%8a%b9%e8%8c%b6%e3%81%ae%e8%b5%b7%e6%ba%90%e3%81%af%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%81%aa%e3%81%ae%e3%81%ab%e3%80%8d%e3%81%a8%e6%82%94%e3%81%97%e3%81%8c%e3%82%8b%e5%a3%b0%e3%82%82%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e7%89%88%e3%83%84%e3%82%a4%e3%83%83%e3%82%bf%e3%83%bc/ar-AAbBJ4X?ocid=iehp#page=2
 ←人民の声。
 禁断症状になりかかった皆さん、おまっどうさん。
 僕には、習ちゃんが晋ちゃんに会った時の笑顔(「穏やかならずとも改善へと向かう中日関係」
http://j.peopledaily.com.cn/n/2015/0424/c94474-8883256.html
と、こういった声が二重重ねになって映るねえ。
<太田>
 本日は、おかげさまでというか、マジ、紹介すべき記事がありませんでした。
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 一人題名のない音楽会です。
 一年半前のガーディアン掲載コラム
http://www.theguardian.com/music/musicblog/2013/oct/09/verdi-composer-bicentenary-my-favourite-moment
(2013年10月10日アクセス)が記す、ヴェルディ(Verdi)歌劇からの推奨歌唱を、2回にわたって、そのままご紹介することにしました。
 《》は、このコラムからの要約引用です。
Traviata(1958年公演。リスボン) Maria Callas、Alfredo Kraus モノラル録音。
https://www.youtube.com/watch?v=lSmItkgh94Q
 《ヴェルディにとって、同時代を扱った唯一の歌劇。マリア・カラスが自ら手を挙げて演じた配役の中で実写が現存する唯一のもの。》
Othello(2009年公演。バーミンガム?) Birmingham Opera Company
https://www.youtube.com/watch?v=LvsFKbgl_Pc&hd=1
 《英国でオテロを黒人が演じた初めてのもの。地域合唱団による合唱(のリハ風景)。》
Falstaff(1988年公演。?)(注) 第一幕第二場 Nuccia Focile,、Suzanne Murphy等 Welsh National Opera
https://www.youtube.com/watch?v=IaSWVhkBBCM
 《ヴェルディ最後の歌劇。》
(注)「ジュゼッペ・ヴェルディ作曲、アッリーゴ・ボーイト改訂による・・・<歌劇>。原作は・・・喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95
 「サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)は、・・・シェイクスピアの作品に登場する架空の人物。大兵肥満の老騎士。臆病者で「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。・・・
 フォルスタッフの登場するシェイクスピアの戯曲–ヘンリー四世第1部、ヘンリー四世 第2部、ウィンザーの陽気な女房たち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95
Macbeth(2005年公演。バルセロナ)第一幕第一場 Chorus “Patria oppressa!” Symphony Orchestra and Chorus of the Gran Teatre del Liceu
https://www.youtube.com/watch?v=umfjK-FER_A
 《スコットランドの虐げられた民衆の合唱なので、イギリス人にせよスコットランド人にせよ、この場面では気分が高揚する。》
Othello(1976年公演。ミラノ?)Mirella Freni “Desdemona’s willow’s song & Ave Maria”  Margaret Price、Mirella Freni Orchestra & Chorus of La Scala
https://www.youtube.com/watch?v=guwjJWQSRDU&feature=youtu.be&t=2m9s
 《ヴェルディと作詞家の手でこの場面はシェークスピアの原作を超えた。》
⇒紹介される10曲中、ここまでの5曲(ダブリがある)中4曲がシェークスピア原作であることに、(イギリス人の選好が入っていることはさておき、)アングロサクソン文明の欧州文明に対する一方的影響力の大きさに改めて思いを致させられます。(太田)
(続く)
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  –懸案への取り組み(2回目):仏教と人間主義–
1 始めに
 (これは、2015.4.25東京オフ会用の「講演」原稿です。)
 人間主義論に加えて、(人間主義/非人間主義へ読み替えたところの、)縄文モード/弥生モード論、という補助線を用いて、仏教各派の解析を行い、「大部分の仏教国は滅亡し、世界三大宗教の一つでありながら仏教を主要な宗教にしている国は少ない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
という仏教の実態のよってきたるゆえんを説明するのが、今回の私の話の主眼だ。
 さて、帝国陸軍における、招集日本兵を縄文モードから弥生モードへ切り替える際の通過儀礼(イニシエーション)が私的制裁と員数合わせ(と捕虜刺殺)であったと指摘してきたところ、これに準えて言えば、仏教において、人々を弥生モードから縄文モードへ切り替える際の通過儀礼が律である、ということだ。
 また、帝国陸軍に限らないが、軍隊の本分は戦争/戦闘についての教育訓練にあるところ、仏教の本分は、信徒を悟りに導くところにある。
 そして、軍隊の教育訓練の教科書が教範であるところ、仏教において悟りに導くための教科書が経ということになる。
 以上を念頭に置いて、釈迦の事跡の要諦を、極度に単純化してフローチャートに落とせば、次のようになる。
(I) 出家・律(人間主義化準備・人間主義化通過儀礼)
           ↓
(II) 禅・悟(人間主義化手法・人間主義化)
           ↓
(III)経(律及び悟についての叙述)
 釈迦は新たな宗教を創始したつもりなどなかったと思われるところ、上座部(南伝)仏教とは、理念的には、この釈迦事跡フローチャートの墨守を旨とする宗教なのだ。
 それに対して、大乗(北伝)仏教とは、「釈迦の没後100年ほど後」の「根本分裂」の原因となったところの、(I)を重視しない「大衆部」(注1)の中から、『釈迦死去の約700年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされ』て出現した仏教であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E9%83%A8 ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99 (『』内)
(III)から出発し(注2)、その結果、(II)の禅、従ってまた、悟、をも(禅宗とチベット仏教を除き)重視しないこととなった(注3)、宗教なのだ。
 (注1)「おおよそ・・・律<の>遵守を支持したグループ<中残ったもの>が現在の上座部仏教に相当する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99
 (注2) 「紀元前後<に>、・・・積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
 「釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして<悟>が訪れる(三劫成仏)という説を唱え<る者が出てき>た。この傾向<を>・・・明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99 前掲
 「ジャータカ<とは、>・・・紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
 「<すなわち、>大乗仏教とは、他者を救済せずに自分だけで・・・悟・・・るまいとする菩薩行を中心に据えた仏教<なの>である・・・
 <ちなみに、>仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
 (注3)「釈迦<は、>・・・菩提樹・・・の下で・・・<禅>に入った。すると、・・・丸1日<後、>・・・悟りを開<いた>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
 「<禅>は止(サマタ<=samatha>)瞑想と観(ヴィパッサナー<=Vipassana>)瞑想に分かれる・・・
 逸れたら引き戻すプロセスにおいて、戻る方ではなくむしろ逸れる方に着目し、逸れという出来事の生起と逸れが向かった対象の種類をいちいち確認していけばそれはもう観瞑想になる。・・・
 坐る瞑想(坐禅)と歩く瞑想(経行)の他には、せいぜい掃除、皿洗いぐらいしか瞑想になることが知られてないが、実は読書瞑想も勉強瞑想も論文執筆瞑想も会話瞑想もまったく問題なくでき、これらはむしろ<観>瞑想にふさわしいとさえいえる。・・・
 こうして一切の無自覚な「放逸」をつぶしていくことが、仏陀が最初から最後まで(仏陀の最後の言葉である「…怠らずに励め」もこれを言っている) ただそれだけを説き続けた(のに<支那仏教に、従ってまた、>日本仏教に<も>全く伝わらなかった!)「不放逸」の教えだ。
 不放逸でさえあれば、「一切皆苦」と言われる際のあのあらゆる「苦」から解放されるというのである(そして、驚くべきことに、これはたぶん本当である)。・・・
 言語をもつ人間の大人は、この(「本来の自然な」であるはずの)状態に戻るために、意識的な(つまり多少ともテクニカルな)方法を必要とするわけである。・・・」
http://togetter.com/li/652043
 この筆者たる永井均(1951年~)については、下掲参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87
 なお、経には、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に相当する言葉は出てこない。
 Dhyana(サンスクリット)=Jhana(パーリ)=禅、という言葉のみ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dhy%C4%81na_in_Buddhism
 禅宗は、禅を重視する点で、東北アジアにおける他の大乗仏教各派の中で唯一、上座部仏教に似通っている。(但し、観瞑想は欠如しているわけだ。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Vipassan%C4%81#Inductive_and_deductive_analysis_in_the_Indo-Tibetan_tradition
 チベット仏教も大乗仏教だが、禅宗同様、禅を重視しており、しかも、サマタ瞑想(focused/fixation meditation)とヴィパッサナー瞑想(analytic meditation)を交互に行うことを旨としている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tibetan_Buddhism
 「最も一般によく使われるサマタ瞑想は呼吸を対照するもの(安般念、アーナーパーナ・サティ)である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3
 「仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3
 サマタ瞑想的なものは多くの宗教に存在するが、ヴィパッサナー瞑想は仏教にのみ存在する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Samatha
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3
 (ちなみに、日本の仏教は支那の大乗仏教を継受したものだが、実に、(I)までをも重視しない、という特異なものだ。)
 私は、「ヴィパッサナー瞑想」を「念瞑想」と呼んできたところだが、永井に倣って、今後は、「サマタ瞑想」を「止瞑想」、「ヴィパッサナー瞑想」を「観瞑想」、と呼ぶことにしたい。
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[大乗仏教(補足)]
 「大乗経典においては仏教混交梵語(・・・Buddhist Hybrid Sanskrit)と呼ばれる言語やサンスクリット語が、主に南方に伝わった上座部経典においてはパーリ語が用いられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 前掲
 「大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは時空間を別にしたそれぞれの世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の薬師如来などがある。・・・
 この思想運動が古代から続くタントリズムと結びつき、ブッダとは非歴史的な「物自爾」ともいうべき存在(法身)の自己表現であるという視点が生まれ、その存在を大日如来と想定した。それ以前の、歴史としておもてに表れた部分(顕教)の背後に視座を置くことからこの仏教を顕教から区別して「密教」という。密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされる。心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ三密加持を行じ、みずからこの非歴史的存在を象徴することで成道できるとする「即身成仏」を唱えた。
 そのほか、釈迦が入滅してから1500年が経過すると仏教はその有効性を失うとする末法思想を背景に、末法の世において娑婆世界で成道すること(自力聖道門)の困難を主張し、それを放棄することでいったん阿弥陀仏の極楽浄土へ往生してから成道すること(他力浄土門)を提唱する浄土教も起こった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99 前掲
 「タントリズム<とは、>・・・ちょうど古代インドのヴェーダを奉じる集団を、バラモン教(Brahmanism, ブラフマニズム)と総称するのと同じ話で、類似した集団をひとまとめで分り易く呼び表すために欧米で作られた言葉<であって、>・・・「タントラ」自体も、紀元後のインドで徐々に広まった経典一般の新呼称であり、特定の経典を指した言葉ではない。・・・1~2世紀ごろ、北インド(いまでいうカシミール地方)のアーリア系のバラモン教から端を発している。7~8世紀以降に南インドで広がりはじめ、9~12世紀には、<ヒンドゥー教の>シヴァ派、ヴィシュヌ派、<及び、>仏教の思想に大きな影響を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
 「仏教の教えは、インドにおいて・・・段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて仏説として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、・・・仏の極意の所在を特定の教典に求めて所依としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 前掲
 但し、前者の中では例外的に、日本の天台宗は、後者的だ。(後述)
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2 インドの仏教(サンスクリット仏教)
 人間主義的な国は亡び、人間主義的な人はカモにされた結果、インドで仏教は、まともなものもそうでないものも、ことごとく忌避されるに至り、ほぼ絶滅し、現在に至っている。(コラム#省略)
3 チベットの仏教(チベット語直訳仏教)
 チベットの仏教は、大乗仏教の中ではもちろんのこと、上座部仏教に比べても、最もまともな仏教であると言える。
 現在のダライラマが、全仏教界を代表する人物となったのは、決して偶然ではないのだ。
 (彼は、たまたま、チベット人の事実上の元首であり、だからこそ、ノーベル平和賞を受賞したが、そのことと、このこととは直接関係がない。)
 (ちなみに、あの麻原彰晃もまた、チベットの仏教に魅了され、ダライラマとの面会を実現させ、そのことをオウム真理教の宣伝に活用した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E6%99%83 )
 チベットの仏教のまともさのよってきたる所以は以下の通り。
 「チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、・・・チベット独自の要素も見られるが、チベット仏教の特徴と見なされる要素の大部分は、後期インド仏教の特徴である。チベットでは仏教を取り入れるにあたって、サンスクリット語の原典からチベット語へ、原文をできるだけ意訳せず、そのままチベット語に置き換える形の逐語訳で経典を翻訳した・・・
 モンゴル文化圏でも支配的な宗教<になった。>・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
 ちなみに、比較的初期において、以下のようなことが起こったとされている。
 「8世紀末のチベット<で>行なわれた、インド仏教と中国仏教の間の宗教論争・・・の結果、インド仏教が勝利を収め、以後のチベット仏教の方向性を決定づけた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BC%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%AE%97%E8%AB%96
 これは、支那の仏教がいかなるものであったか・・後で説明する・・を踏まえれば、当然のことであったと言えよう。
 
 問題は、どうして、チベットで仏教・・しかも、最もまともな仏教・・が国家レベルでも個人レベルでも絶滅しなかったか、だ。
 単純化して言えば、宋や明などの漢人王朝はホンネでは墨家の思想を信奉していて平和志向で唯物主義的なので、平和的で貧しく陸の孤島的なチベットに手を出さず、他方、元や清などの好戦的な非漢人王朝は、上層部がチベット仏教に帰依したので、チベット仏教の最高位が元首であったチベットを保護したからであろう、というのが私の考えだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 等
 しかし、現代に入り、交通手段の発達によりチベットが陸の孤島ではなくなり、かつ、天然資源が重視される時代を迎えたところ、(漢人王朝的ではあるものの、)中共の支配下で、国家レベルのチベット仏教は死滅するに至り、個人レベルでも、チベット仏教は、ダライ・ラマ元首制によって国家レベルのそれと不可分であるだけに、存続の危機に直面している。
 このところの、チベット人による対中共抗議の焼身自殺は、チベットの仏教のまともさ、そして、チベット人の仏教徒としてのまともさ、を反映している。(コラム#7619参照。)
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[チベットにおけるダライ・ラマ元首制]
 「ダライ・ラマ (Dalai Lama・・・) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E
 「化身ラマによる転生継承制度は、旧勢力への対抗措置、血縁主義の弊害排除、僧侶の妻帯を禁ずる戒律復興の動きに合致した・・・転生継承制度はチベット仏教に特有なものであるが、生身の人間を仏陀・菩薩・過去の偉大な修行者などの化身として尊崇することは、・・・大乗仏教においては特異なことではない。日本仏教においても明治以前には、各宗派の祖師たちは仏陀・菩薩などの化身として尊崇されていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E8%BA%AB%E3%83%A9%E3%83%9E
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4 東南アジアの仏教(パーリ語(サンスクリット)仏教)
 (1)序
 ベトナムを除き、東南アジアの現在の仏教は、一般に上座部仏教であると言われているところ、この地域の現在の上座部仏教は、実は、仏教が、基本的に戦いと現世利益の宗教であるヒンドゥー教と、次元や形態こそ様々だが、習合している、疑似仏教である、と言っても過言ではない。
 この地域の仏教国や仏教徒が絶滅しなかったのは、そのおかげである、というのが私見だ。
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 [(まともな)仏教国とヒンドゥー教国の感覚的な違い]
 隣国に近いところの、チベット仏教の国であるブータンとヒンドゥー教の国であるネパールから我々が感じる違いが、まともな仏教国とまともなヒンドゥー教国の違いだと思えばよい。
 ブータンでは、人々は、死について、一日に5回考えることとされているところ、それが、生の幸福感を生み出している。
http://www.bbc.com/travel/story/20150408-bhutans-dark-secret-to-happiness
 そのブータンでは、「<ラマ元首制>が、1907年に世襲王政が<平和裏に>成立するまで約300年間維持された。<それは>・・・絶対君主制だったが、・・・2008年に<平和裏に>・・・立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。」また、平和が基本的に維持されてきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3
 釈迦の生地であるにもかかわらず、ヒンドゥー教が普及したネパールでは、戦争や内紛が続いてきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
 両国とも、ヒマラヤ山脈南麓に位置し、北方から侵略を受けることが基本的になく、南方からも僻遠の地であったことから、征服を免れた。
 また、インド亜大陸が英国領になってからも、英国は、征服志向の帝国主義ではなく、ブータンは平和的であったため、また、ネパールは好戦的ではあったが、英国に傭兵を提供する協定を結ぶこと(上掲)で、それぞれ、征服を免れた。
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[上座部仏教・パーリ語仏典・スリランカ]
 「東南アジア<の多くの地域・・スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボディア、ラオス・・で>は仏教の言語の翻訳をして<おらず、>パーリ語という、紀元前1500年ぐらいの、サンスクリット語にきわめて近い言語を直輸入してい<て、>・・・それぞれの自国の言語とは全く違う、聖典語というべきこのパーリ語を使って、仏教をそのまま引き受けて現代にいたってい<る>。」
http://www.ut-life.net/study/kouki/department/indian_philosophy/
 「伝統的に上座部仏教においては、<止>瞑想を先に修行して、それから<観>瞑想へと進むという階梯がとられてきた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
 スリランカで、紀元前30年前後に、パーリ語で口伝されてきたものを集め整理した上で文書にし、仏典集とした。爾来、スリランカは、仏教徒が多数を占める国として、世界最長の歴史を誇る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lanka#Demographics
 ちなみに、スリランカには、移住によるというよりは、文化伝播の結果として、同一の人種の人々に対して、インド亜大陸から、(インドアーリア語族に属するパーリ語(Pali)の一種である)プラクリット(Prakrit)、及び、(ドラヴィダ語族(Dravidian)に属する)タミル語(Tamil)が、それぞれ、普及した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lankan_Tamil_people
http://en.wikipedia.org/wiki/Prakrit
http://en.wikipedia.org/wiki/Tamil_language
 実際、スリランカの多数派でプラクリットを話すシンハラ人と少数派でタミル語を話すタミル人は、言語的にも文化的にも異なっているけれど、遺伝子分析によると、余り違いがない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lankan_Tamil_people
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[戦いと現世利益のヒンドゥー教]
 ヒンドゥー教は、「神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期・・・カースト制等を特徴とする宗教であ<るが、>・・・世界全体での信者数を比較してみるとヒンドゥー教徒は仏教徒よりも多くなる<が、>信者が地域的に偏在していることもあって、日本では世界宗教ではなく民族宗教と考えられており、世界三大宗教の座を仏教に譲っている。」
 3大神中、ヴィシュヌ神の化身に『ラーマヤナ』の英雄ラーマ、『マハーバーラタ』の英雄クリシュナ、妃に富と幸運の神ラックシュミー(吉祥天)がおり、シヴァ神(大自在天)の化身に戦闘と財福(と冥府)の神マハーカーラ(大黒天)がいて妃の化身である戦いの神であるドゥルガーとカーリーがおり、子供に富と繁栄(と智恵と学問)の神ガネーシャ(歓喜天)がいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99 (下の[]内も)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9
 「ブラフマーは宇宙の創造を、ヴィシュヌは宇宙の保持を、シヴァは宇宙の破壊をそれぞれ担当」の中のブラフマー(梵天)[・・その妃はサラスヴァティー(弁才天)・・]が3大神の一角を占めているが、「他の<2大>神の様に、自分を中心とした独自の神話もなく、観念的なために一般大衆の人気が得られ<ず、>・・・ヒンドゥー教の時代(5世紀から10世紀以降)になり、シヴァやヴィシュヌが力を持って来るにつれて、ブラフマーはこれら二神いずれかの下請けで世界を作ったに過ぎないとされ、注目度が低くなって行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC
 なお、ヒンドゥー教には、このほか、『リグ・ヴェーダ』の中心的な神である、雷神たるインドラ(帝釈天)がいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99 前掲
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 (1)スリランカ
 スリランカの仏教はヒンドゥー教と文字通り習合しており、そのシンハラ人は、仏教的要素はタテマエに過ぎず、ヒンドゥー教的要素がホンネであるところの宗教を信奉している(注4)のに対し、そのタミル人は、タテマエもホンネもヒンドゥー教徒である、と見たらよかろう。
 (注4)「ミャンマー・タイなど東南アジアに広まった上座部仏教は、・・・スリランカの仏教が起源である。・・・
 <但し、スリランカでは、僧は、>現世利益<を>・・・仏教寺院内に必ずあるヒンドゥー教の神々を祀る神殿・・・で祈願する・・・。また<在家は>仏像とヒンドゥー神を同時に祭っている事が一般的・・・であり、・・・<形の上では>日本のかつての神仏習合に似ている。・・・
 在家・・・は・・・五戒・・・を守り、<僧団>に・・・布施・・・を<行っ>て功徳・・・を積む。<それ>・・・によって、来世でよりよい地位に生まれ変わると信じている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 「<スリランカの>仏教の形態は、<10>世紀と<11>世紀において、仏教を絶滅寸前に追いやったところの、<対岸からやってきた>タミル人との、スリランカにおける諸戦争への対応として、ややもすれば、戦闘的にして高度に規律を重んじたものとなったが、それが、仏教世界全域においてルネッサンスを醸成する弾力性を生み出し、仏教を、ビルマ、チェンマイ、モンの諸王国、ラーナ(Lana)、スコタイ(Sukothai)、ラオス、及び、カンボディアに普及させることとなった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism_in_Cambodia
 つい最近まで、シンハラ人とタミル人が、相互の一般住民の大虐殺を含む、血腥い内戦を長期にわたって繰り広げた背景にはこのことがある、と私は考える。
 他方、シンハラ人、というか、スリランカが、インド亜大陸の本体から侵略されることはあっても(注5)、侵略することがなかったのは、資源の相対的多寡もあるが、ヒンドゥー教に比しての、仏教・ヒンドゥー教習合宗教の平和性にある、と考えられるところだ。
 
 (注5)9世紀から13世紀にかけて、南インドを支配したタミル系のヒンドゥー王朝チョーラ朝は、925年にスリランカを征服した。
 今日、東南アジア全域に見られるヒンドゥー文化の事例は、このチョーラ朝の遺産に負うところが大きい。
 なお、チョーラ朝は、1070年にスリランカから撤退する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chola_dynasty
http://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lanka
 とまれ、東南アジア一帯には、チョーラ朝によってヒンドゥー教が伝播し、次いでスリランカのシンハラ人によって上座部仏教・ヒンドゥー教習合宗教が伝播した、ということになる。
 (2)ミャンマー
 「ミャンマーの仏教は、・・・<観>瞑想を<核とする>上座部仏教の・・・近代における・・・改革・普及を主導する中心的役割を果たしてきた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
とされているが、それは、私見によればタテマエ上の話であり、以下から分かるように、ミャンマーの人々はヒンドゥー教徒的だ。
 「2014年の・・・調査では、ミャンマーのあらゆる人々は、軍部を最も好意を持つ機関であるとしており、・・・<その好意度は、>メディア、政府、野党といった諸機関に対するものを上回っている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Tatmadaw
 「1752年から1885年までのビルマ(ミャンマー)最後の王朝・・・は、ビルマ史もおいて二番目に大きな帝国を築き上げた。・・・
 拡張主義的であった、この・・・王朝は、・・・プール(Manipur)、アラカン(Arakan)、アッサム(Assam)、ペグー(Pegu)のモン(Mon)王国、そして、アユタヤ(Ayutthaya)のシャム(Siamese)王国対する諸作戦を敢行した。・・・
 1846年に国王になったパガン(Pagan)は、でっちあげの嫌疑でもって、何千人もの・・いくつかの典拠によれば6000人もの・・彼の、彼よりも金持ちで彼よりも影響力ある家来達を処刑した。・・・
 この王朝は、大英帝国と三度戦い、そのことごとくに敗北し、最終的に英国によってビルマは併合されてしまった。・・・
 <その>宮廷で、バラモン達は、土俗の精霊達やヒンドゥー教の神々への帰依大諸儀式を定期的に執り行った。・・・
 地鎮生贄は、・・・王国首都の起工の際に、その首都の難攻不落性を確保するために、人間の犠牲者達が儀式的に埋葬によって犠牲に供された。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Konbaung_Dynasty
 (3)タイ
 タイの仏教は、現在の上座部仏教の中では、ヒンドゥー教の影響が最も軽微であり、それが故にミャンマーに比して平和志向であったのだろうが、肝心の観瞑想を基本的に欠いている点で、それは、やはり、まがいものの上座部仏教であると言えそうだ。
 すなわち、タイでは、「後に王に即位したリタイ王(在位1347年? – 1368年?)は、衰えて行くスコータイ王朝を仏教思想で立て直そうと、タイ族の君主として初めて出家を行い、タンマラーチャー(仏法王)と名乗った。・・・リタイの出家、及びタンマラーチャーの思想は、王権を高める上で非常に有利であったためアユタヤ王朝、ラーンナータイ王朝などの周辺諸王国に伝播していった。さらに、この出家の習慣は初期は王が行っていたが、後には民衆にも伝播し、タイ族の男子は成人すると必ず出家すると言うのが暗黙の義務になっていった。・・・
 庶民の仏教観念としてタンブンというものがある。タンブンとは徳を積む行為のことである。タンブンと言う言葉は広義には人や動物を助けたりする行為が含まれるが、狭義には寺院や僧への寄付のことになる。タンブンの観念は輪廻転生の思想が影響している。・・・<これは、>タイに仏教が伝わる以前からあった思想である・・・
 タイにおいては、仏教徒の男子はすべて出家するのが社会的に望ましいとされて<い>・・・る。出家するための条件としては男子で20歳以上、宗教的な罪がないことを前提としている。・・・
 <但し、通常、>数週間という短い期間で出家を終える。・・・
 タイの仏教ではヒンドゥー教・・・の神々を神話の産物として位置づけ、信仰の対象にしていない。・・・タイの寺院では本尊には必ず仏像を配置しヒンドゥーの神々はあくまで装飾の一部である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 ちなみに、「タイでは、近年にいたるまで、あまり瞑想の技法というものは修行されませんでしたが、アーチャン・ブッダダーサがスアンモク森林寺院に居をかまえて、パーリ経典にもとずくアナパナ・サティ・ヨグを紹介してから、タイのほかの寺院でも実習されるようになっています。・・・」
http://ayur-indo.com/meditation/meisou7.html 前掲
 そんなタイは、無謀にもミャンマーが英国に執拗に楯突いたために英国に併合されるようなことがなければ、19世紀中にもミャンマーに征服されて滅びていた可能性が高いし、その後も、英国が牽制してくれなければ、20世紀にはフランスによって征服されていた可能性が高かったことだろう。
 (4)カンボディア
 カンボディアの仏教は、大乗仏教から上座部仏教に乗り換えただけに、(そこまで調べられなかったけれど、)まともな上座部仏教である可能性が高い。
 但し、当然のこととして、ヒンドゥー教と習合している上、アニミズムとも習合しているらしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism_in_Cambodia
 なお、チベットにおいて、支那の大乗仏教とインドの大乗仏教が比較された上で後者が選択されたのと同様、カンボディアにおいて、支那の大乗仏教と上座部仏教が比較された上で後者が採用されたのも、当然だと言えよう。
 まともさにおいて、上座部仏教>インドの大乗仏教(≒チベットの大乗仏教)>支那の大乗仏教(>日本の大乗仏教)、であるところ、理論的比較をすれば、容易にそのことが分かるであろうからだ。
5 支那の仏教(漢語意訳仏教)
 支那には大乗仏教が伝わったことになっているが、サンスクリット仏典からの直訳ではなく意訳(上出)であったために歪んでしまった上、表意文字への翻訳であることから、意訳されたものの解釈が更に歪んでいったと考えられる(私見)。
 それに、そもそも、支那の大乗仏教には観瞑想がなかった(上出)ので、仏教を通じて支那人で悟った者、すなわち、私の言う人間主義者になった者は殆んどいなかったのではないか、と想像される。(私見)
 ホンネでは意識的・無意識的に(平和志向で唯物主義的な)墨家の思想を奉じるところの、世俗的な支那社会で、仏教が一時とはいえ、流行したのは、一体どうしてなのだろうか?
 それは、タテマエとしての儒教と道教が、あたかも、春秋戦国時代という戦乱の世を終わらせたかのように、秦・漢という統一国家が支那に成立したけれど、再び、魏晋南北朝時代という戦乱の世となったことから、儒教と道教の要素も含んでいるところの、より「強力」な新しいイデオロギーに対する需要が、当時の支那にあったからだろう。
 とはいえ、唐において、公式には、仏教は、せいぜい、道教に次ぐ地位を占めたにとどまる。
 下掲参照。
 「後漢代に伝来した仏教は[世俗的な支那社会にはそぐわないものがあったが、]魏晋南北朝時代の混乱の中で・・・貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。・・・[その、道徳と儀式の重視は儒家に、内面の智慧の養成への希求は道家に訴えるものがあった。]
 <唐(618~90年、705~907年)の>皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていた。・・・[その後、密教(Esoteric Buddhism)が伝わったところ、それは、の真言(mantra formula)や<灌頂のような>儀式群を伴っており、国家や個人を守り、後生のためになり、旱魃時に降雨をもたらすとされた<こと、がその背景にある。>]
 その他にも長安には明教(マニ教)・<ケン>教(<ケン>は示偏に天。ゾロアスター教)・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、国際都市としての景観を持っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Buddhism ([]内)
 唐の、というか、唐を一時簒奪したところの、武則天は、公式に、仏教と道教の地位を逆転させた、当時の唯一の皇帝だが、下掲を読めば分かるように、彼女は、いかなる観点からも仏教徒とは言えそうもない非人間主義的な人物だった。
 「武則天<(在位:690~705年)>は仏教を重んじ朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。これは後の日本の国分寺制度の元になった。
 洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、<武の夫であった、皇帝たる>高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。・・・
 <彼女は、>14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位。正五品)となった。・・・太宗の崩御にともない出家することとなったが、額に焼印を付け仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。・・・太宗の子である・・・高宗<の>・・・皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした後、生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませた。王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
 結局、下掲のように、仏教は、道家や儒家の攻撃を受けて衰退することになる。
 「第15代武宗[(Wuzong)]は道教を信奉し、仏教を始めとする外来宗教を取り締まった(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただ、この措置に宗教的な色は薄く、出家により脱税を謀る私度僧を還俗させ財政の改善を目的とした。これ以降の仏教は往時の繁栄を取り戻すことはなかった。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%84%88 ([]内)
 「会昌の廃仏・・・<では、>[外来のものだとして、]仏教と共に、・・・<明教、<ケン>教。景教の>「唐代三夷教」・・・も排斥された。[仏教の場合、寺院群が貴金属を貯め込み過ぎ、貨幣の原料が確保できなくなったことも一因だった、との説がある。]・・・弾圧は会昌5年(845年)4月から8月まで行われ<たが、>・・・この廃仏においても、長安・洛陽の二京には4ヶ寺を残し、各州の州都にも1寺ずつ残している。州の場合、大中小の3等級によって、各20人・10人・5人の僧を残した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%98%8C%E3%81%AE%E5%BB%83%E4%BB%8F
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Buddhism 前掲([]内)
 「老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、・・・両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
 「唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈[(768~824年)]や李翺たちである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%84%88 ([]内)
 参考1:朝鮮の仏教
 参考2:ラオスの仏教
 どちらも、時間切れで調べられなかった。
 参考3:ベトナムの仏教
 「ベトナムの仏教は、日本や朝鮮半島のそれと同じく、基本的には北伝仏教・<支那の大乗>仏教である。道教などとも混交しており、日本のように宗派には基本的に分かれていない混然とした形態だが、あえてその特徴を挙げれば、宋代以降の中国仏教と同じく、禅宗(臨済宗)と浄土教の色彩が濃い、「浄土禅」的性格が比較的強い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 ベトナム戦争中に、仏僧による焼身自殺が何件かあったことからすると、カンボディア等の上座部仏教の影響で、観瞑想でもって悟る者が、若干はいるということだろうか。
6 日本の仏教(漢語意訳仏教)
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[日本の仏教についての挿話]
 下掲は、中共人民によるいつもの日本讃嘆だが、ちょっとした誤解ってやつだ。
 「高野山は空海ゆかりの地。空海は遣唐使(留学僧)として唐に渡り仏教を学んだ人物だけに、中国との縁も深い。参加者たちは仏教への造詣が深い人が 多く、「中国で学んだ日本人の僧侶が、母国でこのような形で仏教を広め、こんなに定着しているとは……」と、日中のつながりを実感し感激もひとしおだった という。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150415/279980/?n_cid=nbpnbo_mlp&rt=nocnt (コラム#7615)
 また、下掲は、本人は恐らく自覚していないのだろうが、ものの見事に日本の仏教の伝統に即した発想だ。
 「終日<観瞑想>を絶やさなければ、解脱してしまうそうである。(私自身は解脱してしまわないために、ときに意識的・自覚的に放逸状態になることを心がけている。)・・・」
http://togetter.com/li/652043 前掲
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 (1)悟り(人間主義化)不要の日本
 日本人は古来から、その大部分が既に悟った状態、すなわち、私の言うところの人間主義者なのだから、釈迦の苦悩と悟りによるその克服とは全くご縁がない社会だったし、仏教など全く必要としない社会だった。。
 そんな、日本で、仏教が、積極的に継受されたように見え、江戸時代には既に名存実亡状態に陥りつつも、現在に至っても、いまだに形の上では滅亡していないのは、一体、どうしてなのだろうか。
 皮肉にも、日本に渡来した仏教が、二重に歪曲された経と観瞑想の欠如を特徴とする、支那の仏教・・偽仏教・・であったことが、功を奏したのかもしれない。。
 その偽仏教が、日本において、一層、歪曲されることになったとしても不思議ではあるまい。
 すなわち、日本では、非人間主義社会からの隔離を目的とする通過儀礼たる「律」は採用されず、人間主義が盛り込まれたところの、簡素な「戒」が「作られ」、採用されることとなったのだ。
 浄土真宗に至っては、そんな戒すら切り捨てたところだ。
 それは、私見では、自分達の大部分が最初から悟った状態にある、と、人々がうすうす気付いた日本では、仏教の指導者すら、俗界から隔離して養成する必要が必ずしも存在しない、と思われたからではなかろうか。
 なお、支那の仏教の、インド、ギリシャ、支那等の要素を含むところの、総合芸術としての側面が、日本人を瞠目させ、日本人の美意識や生活様式に多大な影響を及ぼしたのは事実だ・・それが、更に欧米にもインパクトを与えている。(本日目にした下掲記事参照。・・
http://www.slate.com/blogs/behold/2015/04/24/jacqueline_hassink_view_kyoto_is_a_decade_long_project_focusing_on_kyoto.html )
が、これは、本日のテーマからはずれるので立ち入らない。
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[日本の仏教における律の不在]
 「律<(具足戒)>の条項を遵守する事は多くの部派において必修であり、僧侶と在家信者を区別する最大の理由として受け継がれている。現在においてもタイやスリランカの南方仏教では・・・律が厳守されており、中国からベトナムにかけての大乗仏教、チベット密教におけるゲルク派などにおいても概ね同様である。ただし、後世のインドやチベットで行われた後期密教、日本の鎌倉仏教など、律ではなく戒によって僧の資格とするもの、あるいは浄土真宗の戒すら不要とする「無戒」論などがあり、しばしば異端視される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
 律は、「波羅夷(僧資格剥奪の罪:淫、盜、殺人/過失致死、宗教的な嘘)、僧残(僧資格停止の罪)、不定(女性と2人きりになること。糾問される)、捨堕(禁止物の所持、もしくは禁止方法での物品の獲得。懺悔しなければならない(以下同じ))、波逸提(様々な好ましくない行為)、提舎尼(食物の授受)、衆学(服装、飲食、説法)、滅諍(僧団内の紛争収拾にまつわる規則違反)、からなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8F%90%E6%9C%A8%E5%8F%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E5%A4%B7%E7%BD%AA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E6%AE%8B
 「最澄<は、>・・・822年に<律>・・・を切り捨てて、代わりに・・・<戒(菩薩戒)>・・・のみを以て出家の授戒(得度)とする「大乗戒壇」という、日本天台宗の独自の「戒壇」が比叡山延暦寺に作られ、以降、法然・親鸞・道元・日蓮といった後の鎌倉仏教の担い手も含め、比叡山で学んだ僧侶達は、この方式で僧侶となった。なお、道元は後に中国の宋に渡って庵者から修行をやり直し「仏祖伝来の正戒」と称した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9%E6%88%92
 「日本の菩薩戒は漢訳の『梵網経』を典拠とし、「十重禁戒」と「四十八軽戒」、合わせて「十重四十八軽戒」から成る・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9%E6%88%92
 十重禁戒:殺生、偸盗、淫、妄語(真理に照らして偽りとなることを言う)、飲酒、説過(過ちをことさらに非難したり責め続ける)、自讚毀他(全ての生命に生かされていることに感謝して敬い、自分より他人の利益と幸せを優先する)、慳法財(教えや財産をひとり占めし分け与えない)、瞋恚(しんに。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)、謗三宝、のどれか一つでも破ることになると・・・波羅夷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E9%87%8D%E7%A6%81%E6%88%92
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/113371/m0u/
 しかし、「梵網経<は、>・・・5世紀頃に宋 (南朝)で成立した偽経(中国撰述経典)とみる学者が多い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C
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 (2)拡大弥生時代の日本仏教(公的仏教)
 日本が仏教を継受したのは、個人の救済のためではなく、拡大弥生時代の広義の外患の下における国家鎮護と病気平癒、すなわち、国家的ニーズに、仏教がその祈祷や儀式を実践することで、応えてくれるのではないか、との期待からだった。
 そもそも、仏教公伝自体が政治的な背景の下で起こった。
 すなわち、「6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた<(仏教公伝)が、当時、百済は、>・・・逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D 
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[仏教公伝/鎮護国家・病気平癒]
 「・・・日本に仏教が伝来したのは、6世紀のことです。朝鮮半島・百済(くだら)の聖明王より、釈迦の金銅像と経論などが贈られたのが最初だといわれています。
 しかし、仏教は、簡単に受け入れられたわけではありません。伝統的な神様と相いれないものとして、仏教を拒絶する人が少なくありませんでした。
 その結果、仏教を受け入れるかどうかで、かなり大きな政治的な争いがありました。仏教受け入れを推進した蘇我氏という豪族と、仏教を排斥しようとした物部氏という豪族の争いです。
 時を同じくして、疫病がはやったのも、この争いに勢いを与えました。仏教排斥派は、外国の神(仏)を拝んだゆえに日本の神が怒り、疫病をはやらせたのだと主張し、寺を焼き打ちにしたり、仏像を川に捨てたりしました。
 結局、この争いは、蘇我氏が武力で物部氏を滅ぼすまで続きます。そして、仏教推進派である蘇我氏が勝ったことで、日本は仏教受け入れの方向に進んでいくのです。
 この時期、日本が仏教を受け入れようとした最大の理由は、鎮護国家つまり国家の平安のためです。仏教の力が、国家の平安をもたらすと信じられていたのです。もうひとつの理由は、病気平癒です。仏教は、病気を治すために望まれていたのです。
 当時の仏教の主な役割は、祈祷だということです。僧侶が祈祷を行うことで、国家を平安にし、病気を治す、それが仏教に求められたことです。すなわち仏教には呪術的な力があると信じられ、人々はそこに期待して仏教を信じたのです。・・・
 そして、仏教は次第に国教化し、僧侶は今で言うところの公務員となっていきます。しかも仏教の担い手は、天皇家や豪族などの上流階級に限られていました。庶民が仏教を信仰することはなく、多くは仏教の存在すら知らなかったでしょう。・・・
 9~12世紀の平安時代には、最澄と空海という2人の僧侶が中国へわたり、最新の仏教を持って日本に戻り、天台宗、真言宗を開くことになります。これによって日本の仏教は、一気に思想的な深みを増していきます。
 ただ、思想は深まったものの、活動が国家との関係から離れることはありませんでした。仏教は、やはり鎮護国家と病気平癒のためのものであり、祈祷が主な役割でした。・・・」
http://sonae.sankei.co.jp/ending/article/150331/e_sogi0001-n1.html
(4月1日アクセス)
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 そして、当時の日本には、下掲のように、国家鎮護の必要性があった。
 拡大弥生時代における、高句麗との戦い(391~404年)(百済・新羅防衛のための戦い)。白村江の戦い(663年)/壬申の乱(672年)(百済防衛のための戦い)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 また、当時の日本における、病気平癒の必要性については、拡大弥生時代から第一次縄文モード時代初期にかけての下掲のような伝染病の流行があった。
 「7世紀から9世紀にかけて、日本とアジア大陸の間で人的・物的な交流が頻繁に行われた。その結果、人物往来の副作用として、大陸の新型病原体が日本列島に持ち込まれ、疫病が日本国内で流行し、多くの人の命が奪われた。・・・
 <とりわけ、>735年~737年の天然痘の大流行で<は、>・・・数えきれないほどの民衆や下級官僚だけでなく、政権の中枢部に位置していた藤原四兄弟を含めた数多くの高級官僚も相次いで病を患って世<を>去った。この疫病の衝撃で、奈良政権は一時的に麻痺状態に陥った。」
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/3051/1/26-touka.pdf 
 しかし、病気平癒については、貴族のレベルにとどまったとはいえ、個人の救済の側面もあったわけであり、仏教を大衆を含めた個人の救済のために活用する動きが出てきた。
 その有力な先駆者が、天才、空海(774~835年)だ。
 彼は、大日経等を根本経典とし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
「821年・・・、満濃池(・・・現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。・・・<また、>828年<には、>・・・庶民にも教育の門戸を開いた・・・綜藝種智院<を設立した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
 なお、空海のライバルであった、秀才、最澄は、「妙法蓮華経(法華経)を根本経典と<し>」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
仏教指導者候補者のための「律」を名目的に残していた奈良仏教を排斥し、指導者・大衆共通の「戒」のみにすることについて勅許を得るとともに、「法華経<によって>仏教全体を体系化した」支那の天台宗に更に密教を加えた形で、支那の大乗仏教の全体像を日本に伝えることで、そこから後の鎌倉仏教諸宗派が族生することとなる土台を構築した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97 上掲
 (3)第一次弥生モードの日本仏教(私的仏教)
 主として内患が打ち続いたところの、第一次弥生モードの日本に族生したのが鎌倉仏教諸宗派だ。
 これら諸宗派は、個人の救済を主として企図した。
 ただし、(当然のことながら)悟りによって個人の救済を図るのではなく、個人の不安を軽減することを企図するものだった。
 鎌倉仏教諸宗派は大きく(●で示した)三つに分かれる。
 (このほか、支那の仏教の直輸入品たる奈良仏教がある。)
●禅宗:「日本<の>・・・真言宗の阿字観、天台宗の止観や臨済宗や曹洞宗の坐禅など<には、>・・・ヴィパッサナー瞑想・・・<が欠如してい>た」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3 前掲
 すなわち、日本の禅宗の座禅は止瞑想的なものにとどまっていたが、私見では、殺生と恐怖がつきまとう戦闘を生業とする武士の間で、精神を安定させる手法を提供してくれるものとして普及した。
 なお、「不立文字を原則とするため中心的経典を立て<なかった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85
●浄土教(≒念仏宗(太田)):「阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。」先駆者:空也(903~972)(踊念仏の「祖」→盆踊り、念仏踊り、出雲阿国の創始した歌舞伎踊り。各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民・・・の願いや悩み<に>聞き入<った。>)、源信(942~1017)(「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させた(注6))、慶滋保胤(よししげのやすたね)(933?~1002年)(念仏結社『勧学会』の結成者の一人)
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E4%BB%8F#.E4.BB.8F.E9.9A.A8.E5.BF.B5
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E4%BB%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%BB%8B%E4%BF%9D%E8%83%A4 >
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99
 祈祷で個人の救済を図った日本の仏教宗派群中の来世志向のものと言えよう。
 大きく、阿弥陀仏信仰と時宗に分かれる。(太田)
 (注6)「四種念仏:称名念仏(仏の名を口に唱えること)・実相念仏(実相としての仏の法身を観じて念じること)・観想念仏(仏の微妙相好を観想すること)・観像念仏(仏の形相を心に念じること)の総称。 」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E7%A8%AE%E5%BF%B5%E4%BB%8F-519309
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 [浄土教が依拠する経]
 「日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。・・・<一番目と三番目は、>インドにおいて大乗仏教が興起した時代である・・・紀元100年頃・・・編纂<され、>・・・二番目「は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4~5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。・・・<なお、>法華経第二十三の『薬王菩薩本地品』には、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろうと書かれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99
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 〇阿弥陀仏信仰:「良忍<(1072~1132年)>を開祖とする<平安末>仏教の宗派<である>融通念仏宗・・・法然<(1133~1212年)>を開祖とする鎌倉仏教の宗派<である>浄土宗・・・<と>親鸞<(1173~1262年)>を開祖とする鎌倉仏教の宗派<である>浄土真宗」がある。
 「融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。」
 浄土真宗では、「念仏は、報恩のために発せられるのであって、浄土往生の条件ではない。・・・他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97 
 〇時宗:「鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派<で>開祖は一遍<(1239~89年)である。>時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%AE%97 前掲
 すなわち、浄土教各宗派は、祈祷による個人の救済を図った鎌倉仏教中の来世利益志向のもの、と言える。
  
●日蓮宗(広義の念仏宗(太田))
 祈祷で個人の救済を図った日本の仏教宗派群中の現世利益志向のもの、と言えよう。
 「・・・日蓮<の>・・・キーワードの一つは「王法仏法冥合一致」ということである。
 王法とは現実世界を統べる法(支配の原理・政策・憲法)、仏法とは仏教、特に法華経(妙法蓮華経)の教えであり、この二つが一致する時、つまり、支配者が法華経の精神を理解し、その教えを治世に活かしたとき、この世界は理想の王土となる。浄土は死後、来世に求めるのではなく、自分たちの力で法華経の精神に基づいて今この現世においてこそ打ち立てるべきものである。
 仏法を政治において実現せよ、法華経の教えを現実世界に移せというのであるから、これはまことにラディカルな思想で、日蓮が何故あそこまで戦闘的、熱狂的な一面を持っていたか、なぜ(現世での救いを諦め、浄土を死後の来世に求めようとする)念仏信仰をあれほど激しく攻撃したか、何故幾度にもわたって権力者と衝突し、度重なる迫害を受けねばならなかったか、それは、日蓮の政治・社会の徹底した変革を目指す現世志向の熱烈な理想主義を見れば納得がゆく。」
http://flaneur.web.fc2.com/025.html
 上掲中でも引用されているところの、内村鑑三の著作から、その日蓮論のさわりを紹介しよう。
 「彼は印度の宗教なる佛教を日本的たらしめたり、彼は僧侶的佛教を平民的たらしめたり、我國の宗教歴史における日蓮の功績は決して尠少ならず。・・・
 日蓮は木石崇拝の佛法を去て経典崇拝の佛法を造り出だせり。彼は改新家の名を負ふて可なり。」(『日蓮上人を論ず』(1896年)(内村鑑三著作集第16巻)174、176頁)
 「日蓮<は、>・・・全世界に於ける彼の如き人物のうちにて最も偉大なる者の一人<であった。>これ以上に獨立なる人を、余は我が國人の間に考へることはできない。實際、彼は彼の獨創と獨立とによって、佛教を日本の宗教たらしめたのである。彼の宗派のみ獨り純粋に日本的である。しかし他の凡てはその起源を或は印度、或は支那、或いは朝鮮の人々に有つたのである。彼の大望もまた、彼の時代の全世界を包容せるものであつた。彼は彼の時までは佛教は印度から日本にまで東方に向つて進み、彼の時よりは日本から印度へ改善されたる佛教が四方に向つて進むべきであると語つてゐる。それゆえ彼は受動的受容的な日本人の間にあって一つの例外であった。」(『代表的日本人』(1908年)(同上)142頁)
 最澄(天台宗)や日蓮が根本法典とする『法華経』(漢語「訳」)の邦訳はネットでも読める
http://www7.ocn.ne.jp/~takesi66/jyohonn/jyohonn1.htm
ところ、私自身、大昔に、本屋で岩波文庫版の『法華経』をチラ見して、買うのを止めたのだが、率直に言って、繰り返しが多く、内容も希薄だ。
 要するに、書かれていることは、みんなが悟れるようにあなたも努力しなさい、ということに尽きるのであって、悟りとはどういうことか、殆んど何も書いてない。
 ほぼ確信を持って言えるのだが、日蓮は、法華経に言う悟りとは人間主義者になることであるとの理解の下、日本人は多くが既に悟っているところ、悟った日本人は、日本政府を通じて、国内においては当然悟っていない少数の日本人を悟らせるとともに、世界においてこそ、日本政府を通じて、悟りの普及を図るべきである、と主張したのであり、人間主義者であった内村は、そんな日蓮に共鳴し、日本を代表する人物の一人であると絶賛したのだ。
 (4)第2次弥生モードの仏教(私的仏教)
 幕末から明治・大正期の第2次弥生モードの時代に、再び個人の救済へのニーズが生じ、神道系、仏教系を含め、新興宗教が多数生まれたことはご承知の通りだ。
 日蓮宗系の新興宗教としては、「『大川周明–アジア独立の夢』を読む」シリーズ(未公開)で何度も登場した日本山妙法寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E5%83%A7%E4%BC%BD
や、石原慎太郎が信者であることで有名な霊友会がある。
 霊友会には、立正佼成会や佛所護念会教団等の分派まである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%8F%8B%E4%BC%9A
 創価学会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A
も、(第3次縄文モード入りしてから生まれたし、通俗的な現世利益志向だが、)日蓮宗系の新興宗教だ。
 このほか、日蓮宗系の思索者で、昭和の精神史に拭い去ることのできない刻印を残したのが、田中智学(1861~1939年)であり、その弟子の宮沢賢治と石原莞爾だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8
 ちょっと長いが、下掲を読んで欲しい。
 「田中智学・・・が唱えた「八紘一宇」は・・・(法華経の精神に基づく)道義的世界統一ということである。・・・石原莞爾の満州国も、少なくとも本来の思想的次元においては、智学が言う意味での「八紘一宇」の精神に基づいていた。・・・
 賢治や莞爾の師田中智学の実像だが、彼は軍国主義どころか、戦争を批判し、既にあの時代に死刑廃止を唱えたほど生命尊重の、徹底した平和主義者だったことも知っておかねばならない。・・・
 法華経の精神を最もよく具現する菩薩(悟りを求める人の意味にも、悟りを得た人の意味にも用いる)の一人に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)がいる。『法華経第二十 常不軽菩薩品』に出てくる菩薩である。この菩薩は誰にでも近づいて行っては、「私は深くあなたたちを敬います、決して偉ぶったり侮ったりはいたしません。どうしてか? あなたがたはみな心の中に仏性(ぶっしょう・仏となる素質)を持っていて、修行を積めばきっと仏[悟りを開いた人]になれるからです」と言って相手を礼拝したという。・・・
 「草木国土悉皆成仏」というのはいささかオーバーな表現だが、人はみな努力すれば「仏(悟りを得た者)」になれる仏性を生まれつき備えている、というのが、仏教、特に法華経の教えであ<る。>・・・
 日蓮が見習いたいと願い、最も尊敬した菩薩の一人がこの常不軽菩薩であった・・・
 宮沢賢治にとっても、常不軽菩薩は理想の生き方で、有名な『雨ニモマケズ』の
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
の「デクノボー」は常不軽菩薩がモデルだと言われている。・・・
 これは牽強付会などではなくて、賢治は実際に「不軽菩薩」と題する詩も書いている。・・・
 この常不軽菩薩を修行者の理想と仰いだ僧がもう一人日本にいた・・・それが越後の良寛である・・・。良寛は師の国仙和尚から授かった印可の偈と『法華経』一巻を生涯肌身離さず持ち歩いていたというが、『法華経』の中でも特に常不軽菩薩に深く傾倒し、この菩薩を讃える詩を幾つも詠んでいる。・・・」
http://flaneur.web.fc2.com/025.html 前掲
 最後に、やや重たい余談だ。
 中共の現在の駐日大使の程永華(1954年~)が、「1973年、外交官研修のため中国外務省から派遣され、日中国交正常化後初の中国人留学生として来日。当初、中国人の国立大学への入学が認められなかったため和光大学で2年間学ぶ。しかし、和光大学の体制に問題があったため、1975年から・・・創価大学に正式に留学して学」んだ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E6%B0%B8%E8%8F%AF
ことは、当時の中共当局が、日本の満州経営が黒幕たる石原莞爾の日蓮由来の人間主義に基づいて行われたことに既に注目していて、人間主義の何たるかを学ぶために、程を創価大学に送り込んだ可能性がある、と考えるに至っている。
 一旦、和光大学に入学させた上で、しかも、創価大学という、日蓮宗系の大学としては、立正大学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
と違って、日蓮どころか、仏教関係の学部学科すらない大学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%A4%A7%E5%AD%A6
で学ばせたのは、かかる意図をカムフラージュするためだったと見たらどうか、ということだ。
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太田述正コラム#7626(2015.4.25)
<2015.4.25東京オフ会次第>
→非公開