太田述正コラム#7416(2015.1.10)
<カール5世の帝国(その4)>(2015.4.27公開)
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<脚注:カール5世の血統>
〇イギリスとの関わり
カール5世の母方の祖母の祖母はカタリナ・デ・ランカステル(Katherine of Lancaster=Catharine Plantagenet)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
だが、彼女は、「<イギリス>のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、2度目の妻コンスタンス・オブ・カスティル・・・の<間の>長女<であり、>・・・・<このコンスタンス>はカスティーリャ王ペドロ1世の次女」だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB
カール5世の息子のフィリップ(2世)は、イギリスのメアリー1世と結婚していた間、イギリスの共同統治者となったが、フィリップ自身がイギリス王室の血をひいていた、というわけだ。
もとより、メアリー1世自身も、母親はキャサリン・オブ・アラゴンであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)
キャサリンの両親は、あの、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イ<サ>ベル1世であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3
イサベル1世達の孫であるカール5世とひ孫であるフィリップ2世は、メアリー1世の、それぞれ、従兄、従甥、にあたる。
更に言えば、メアリーの父親のヘンリー8世は、ランカスター家の租であるジョン・オブ・ゴーントと、その弟・・この兄弟の父親は、イギリスのエドワード3世・・であるところの、ヨーク家の租であるエドマンド・オブ・ラングリー双方の血をひいている(どちらからも5代目の子孫)。なお、ランカスターとヨークの両家は薔薇戦争を戦うことになる・・ところ、この2人はカスティーリャ王ペドロ1世の娘たる姉妹をそれぞれ妻にしており、ヘンリー8世とメアリー1世は、それぞれ、カスティーリャのペドロ1世の6代目、7代目の子孫ということになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%85%AC) (等多数)
以上のような次第であり、ことほどさように、メアリー1世の時代に至るまでのカスティーリャとイギリス両王家の血統は、複雑に交錯している。
〇ハプスブルク家
「スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。・・・1273年にハプスブルク伯のルドルフ・・・がドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。・・・ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。・・・1438年<以降>・・・は<ドイツ>王位をほぼ世襲化することに成功<する。>・・・カール5世の<時に、その>領土は「日の沈まぬ」<世界>大帝国<とな>った。さらにカール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図<も>飛躍的に拡大した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6
「<ちなみに、フェルディナントは、フランドルで育ち母語がフランス語だったところの、兄カールとは違って、>スペインで育ち、スペイン語が母語であったため、スペインの人々は<彼>のスペイン王位継承を望んでいたが、1516年に兄<カール>とトレードされる様な形でオーストリアへ趨き、生涯スペインに戻ることはなかった。・・・兄<カール>との生前の取り決めでは、フェルディナント1世の次は甥で兄の息子<フィリップ>(スペイン王フェリペ2世)が帝位を継承し、以後カール5世とフェルディナント1世の家系が交互に継承することになっていたが、これは無視されて次の皇帝にはフェルディナント1世の息子マクシミリアン2世が即位した。<フィリップから始まる>スペイン・ハプスブルク家もこれを容認したため、以後もフェルディナント1世の家系、オーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D) 等
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(続く)
カール5世の帝国(その4)
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