太田述正コラム#7418(2015.1.11)
<カール5世の帝国(その5)/私の現在の事情(続x51)>(2015.4.28公開)
⇒ずっと以前に、スペインの南北アメリカ大陸の植民地化は、スペインというより、(イギリスと対置される、オール)欧州によるそれであった、と指摘したことがありますが、カール5世の血統を改めて振り返ってみて、つくづくそう思います。
いや、カール5世の血統には、イギリスも含まれているではないか、というむきもおられるかもしれませんが、その頃までのイギリス王室は、プランタジネット家意識(フランス人意識)が抜けきっていなかったところ、プランタジネット家とは、「フランスの貴族であったアンジュー伯アンリが1154年にイングランド王ヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた。ただし、その後に続くランカスター朝、ヨーク朝ともプランタジネット家の傍系であり、その後の王家も女系でプランタジネット家の血を引いている。アンジュー伯家から興ったことから、その初期(ヘンリー2世からジョンまで)についてはアンジュー朝(Angevin Dynasty)とも呼ばれる。・・・<当時、イギリスは、>アンジュー帝国と呼ばれる一大領邦群<の一地方、という趣があった。>・・・ただし、「プランタジネット」を姓として名乗ったのはヨーク家のヨーク公リチャード・プランタジネットが最初である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E6%9C%9D
といった事情を踏まえれば、ランカスター家(プランタジネット家)に繋がってはいても、カール5世は、(イギリス人・・より正確にはケルト化した後アングロサクソン化したバスク人・・と対置されるところの、れっきとしたオール)欧州人であった、と言えるでしょう。
なお、この欧州には、(広義のロシアを除く)スラヴ地域も含まれていることに注意が必要です。
カール5世の父方の祖父の祖母は「ポーランドのマゾフシェ公国の統治者シェモヴィト4世と、リトアニア大公・・・の娘でポーランド王・・・の妹・・・との間に生まれた」ツィンバルカ・マゾヴィエツカであり、「異論はあるものの、ハプスブルク一族の遺伝的特徴に突出した下唇を持ち込んだのは彼女だと言われて・・・いる。一族のメンバーの大部分に現れたこの生理学的特徴は、18世紀頃まで受け継がれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%84%E3%82%AB
という次第だからです。
後の、オーストリア・ハプスブルク家のスラヴ地域への拡大を考えると、その伏線になっている感があります。
(なお、ポーランドもリトアニアもカトリック国(地域)であるところ、ポーランドはスラヴ人/スラヴ語族ですが、リトアニアについては、リトアニア人/リトアニア語(バルト語族)をどう位置づけるか、微妙なものがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E8%AA%9E%E6%B4%BE )(太田)
「トーマス氏の新世界についての年代記は、カール5世の治世というはるかに広大な物語の中に埋め込まれている。
我々は、この国王にして皇帝が、イタリアでフランスと、ドイツでプロテスタント諸侯と、そして、アルジェリアでトルコとあいまみえるのを追いかける。
ここで、トーマス氏は、南北アメリカ大陸のハプスブルク家の財政にとって重要性についての強力な感覚を提供する。
すなわち、16世紀央において、新世界は、帝国の収入の約4分の1、そして、時々、3分の2も供給したのだ。・・・
トーマス氏は、新世界を、より幅広い欧州的観点の中に位置づける勇壮なる諸努力を行っているけれど、その強調点はいささか捻じ曲がっている。
彼は、南北アメリカ大陸、低地諸国、及び、イタリア、の地図群を提供しているけれど、地中海、ドイツ、及び、カールが憑りつかれていたブルゴーニュ(Burgundy)・・フランスのフランソワ(Francis)1世との彼の紛争の核心に位置していた領域・・の地図群は提供していない。
それなのに、トーマス氏が我々に伝えるところによれば、この皇帝は、イタリアを7回、フランスを4回しか訪問しなかった。
<他方、>彼は、どちらも神聖ローマ帝国の一部であったところの、フランドル(Flanders)とドイツは、少なくとも19回は訪問した。
そして、南北アメリカ大陸は一度も訪問しなかった。
彼の諸優先順位がどこに存したかは極めて明確だ。
結局のところ、カールに皇帝位とともに<収入を主として>供給したのは、アメリカ大陸の諸植民地ではなく、ドイツ諸国からなる神聖ローマ帝国だったのだ。
自分の命が尽きようとした時に、自分の諸計画が無に帰したとカールが嘆いたのは、彼の息子のフィリップを神聖ローマ皇帝を継承させることを確保するのに失敗したことを彼は指していたのだ。<(注12)>
(注12)これは初耳だが、根拠らしきものをすぐには見つけることができなかった。
そのような意味において、彼は自分の継承者に大西洋の向こう側の「黄金の帝国」を遺贈したかもしれないけれど、彼は、欧州の中心に存したところの、より重要な帝国・・それは、その30年を超える以前に彼の膝の上に落ちてきた・・を失ったのだ。」(D)
「カールが<スペイン王位及び皇帝位をそれぞれ>譲位した155<6>年には、彼は、まだ55歳だったが、スペインを40年近く統治してきていた。
彼の治世の間、スペインの権力は、カリブ海からメキシコ、グアテマラ、パナマ、エクアドル、ペルー、そしてチリへと延びて行った。
探検家達は、フロリダに分け入り、ミシシッピ川流域へと進んだ。
それは、恐るべき業績だった。」(E)
「彼が亡くなった<のは1558年だが、>・・・1559年には、入念な葬儀が、彼のためにメキシコの大教会堂で執り行われた。
何も入っていない、黒い布で覆われ、王冠が鎮座するクッションを載せた石棺が、著名人達、僧侶達、そして原住民の成員達・・その全員が征服者たるカール皇帝の魂のために祈った・・の行列の一番前に配置された。」(F)
(続く)
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–私の現在の事情(続x51)–
本日午後、1階で、改めて、タンノイとDaliを聴き比べて前回の結論をコンファームした上で、Daliを2階のパソコン部屋に移し、(旧Gatewayパソコン付属のサブウーファー付スピーカーを(隣の)リビングのパソコンに繋いだ上で、)komuroUSB-DAC、及び、komuro小アンプ、と組み合わせてパソコンにセットしました。
その際、DACとアンプは買ったばかりの高品質ケーブル1セットで繋ぎ、アンプとDaliスピーカーはありあわせの安ケーブル2セットで繋ぎました。
(その結果、高品質ケーブル(komuroさん提供)が1セット余っています。)
さっそく、この新システムで音楽を聴きながら、昨日、買ってきたばかりの焙煎コーヒー豆を使ったコーヒーを飲み、至福のひと時を過ごしました。
狭いパソコン部屋にはぴったりの音という感じで、1階で聴いていた時よりもDaliの音が良くなった印象です。
(DACは1階のよりも性能が良いもののはずである一方、アンプは、丸っきし、1階のよりも性能が低いはずなのですが・・。)
いずれにせよ、Gateway付属スピーカーの時の音とはダンチです。
もともと、komuroさんが、DACとヘッドホンを提供されるまでは、私は、近所迷惑にならないよう、朝と夜は(安物)ヘッドホンで、昼だけはGateway付属(安物)スピーカーで、音楽を聴いていたのですが、このところ、スピーカーは全く使っていなかったところ、これで、ようやく、以前の音楽鑑賞のパターンに戻れます。
(といっても、私は、音楽は、ずっと前から、時々、聴いている程度なのですが・・。)
なお、Daliと組み合わせて使おうかと考えたサブウーファーに関しては、ウーファーへの入力ケーブルが2本ではなく1本だけだったので、件のRCAパラレルコネクターをどう、何に装着してよいか分からず、このコネクターは、引き続き、用途未定のままです。
ところで、コーヒーですが、豆だけで、コーヒー一杯に・・ということは一日に・・70円もかかる計算であり、この分が追加的出費になるとバカにならないのですが、第三のビールないし安物焼酎(お湯割り)を週5日は飲んでいたのを、大幅に減らすことで対処しつつあります。
そもそも、就寝直前に酒類を飲むのは睡眠を浅くするので良くないことは前から承知しつつも、どうしても頭が疲れてくる夜更けに、疲れを誤魔化すために飲みがちであったところ、この際、この悪習を絶とうというわけです。
なお、コーヒー豆店の亭主曰く、沸騰しているお湯は好ましくないが、85~90度のお湯だって、ドリップに使ってよい、熱いお湯であるほど苦みが増すが、苦いのが好みならむしろそうした方がよい、とのことで、80度にこだわらなくてよさそうで、安心しました。
また、クリームは、クリープではなく、牛乳を少量電子レンジでチンして使え、とのことだったので、現在のクリープがなくなったら、そうしたいと思っています。
カール5世の帝国(その5)/私の現在の事情(続x51)
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