太田述正コラム#7462(2015.2.2)
<強化された中共の思想統制(続)>(2015.5.20公開)
1 始めに
 本日のディスカッションで予告した2つの記事のうちの1つ、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Zizek)によるコラム
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/088ee78e-7597-11e4-a1a9-00144feabdc0.html#axzz3QXqSwJMU
のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
 どうして表記のタイトルにしたのかは、お読みになれば分かります。
 なお、ジジェク(1949年~)は「スロベニアの哲学者・・・リュブリャナ大学で哲学を学び、1981年、同大学院で博士号を取得。1985年、パリ第8大学・・・で精神分析を学び、博士号取得。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授・・・2000年以降、議会制民主主義の限界を指摘し、「レーニン主義」への回帰を主張する著述が目立つ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF
という人物であり、現在、ロンドン大のバーベック人文研究所(Birkbeck Institute for the Humanities)
http://www.bbk.ac.uk/bih/
の所長をしています。
2 中共当局のモデルはシンガポール?
 「・・・リー・クワンユーは、シンガポールの最初の首相としてだけではなく、専制的(authoritarian)資本主義の創造者としても記憶されることになるだろう。
 このイデオロギーは、前の世紀を民主主義が形成したように、次の<(「この」の誤りか(太田))>世紀を形成することになろう。
⇒完全に誤りです。
 そんなことを言われたら、リー自身が赤面することでしょう。
 リー達、というより、シンガポール市民達が、英国植民地当時の、経済的自由だけあって政治的自由がなかった体制を維持することを望み、それに若干の修辞的体裁を纏わせつつ、実際、その望み通りに推移してきた、というだけのことだからです。
 通常のイギリスの知識人であれば、私と同意見ではないか、と忖度しているのですが、ジジェクは出身もそうですが、考え方も典型的欧州人らしいので、そのあたりの機微が分かっていないようです。(太田)
 何と言っても、トウ小平は、支那で彼の遠大な経済諸改革に着手する前に訪問したのはシンガポールだった。
 
⇒ここも完全に誤りです。
 「1978年・・・10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初となる正式訪日を行った。鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあった。」
http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html (←改めて熟読をお奨めする。)
というのが、中共当局の公式見解だからです。
 トウに関する日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
は、そのラインで書かれています。
 その年の11月にトウがシンガポールを訪問していることは確かですが、日本訪問時のような評価を、中共当局は下してはいません。
 ジジェクがこんな誤りを犯したのは、前にも触れたことがあると思いますがトウに関する英語ウィキペディアに日本訪問の記述がない
http://en.wikipedia.org/wiki/Deng_Xiaoping
、という点に象徴されているように、英語圏にアングロサクソン至上主義的/日本蔑視的偏見があるからではないでしょうか。(シンガポールは、アングロサクソン的見地からは、彼らの優等生なのです。)
 なお、何度も申し上げているように、シンガポールは、自由貿易港であったという優位を生かした都市国家に過ぎないのであって、中共のような巨大・人口/領域国家がモデルにするなどということは、そもそもありえないところです。(太田)
 その頃までは、資本主義と民主主義は、不可分に結び付けられていると見られてきた。
 今や、この結び付けは絶たれたのだ。
 しばしば、欧米は、その文明をその他の世界に輸出する試みに失敗したと言われる。
⇒アングロサクソンと欧州(と場合によっては米国)を区別せず論じるのは、狡猾なイギリス人がよくやる手ですが、ジジェクは、本心、そう思っているのでしょうね。(太田)
 それは、単に部分的にしか正しくない。
 歴史の終わりを画するところの、全球的な自由民主主義について夢想する者はもはや一人もいない。
 しかし、経済諸モデルは、政治的諸観念よりも移転し易いことがはっきりしたのであり、資本主義は勝利するに至った。
 資本主義を採択(endorse)した貧しい諸国は恐るべき速度で成長しつつある。・・・
 自由なる<資本主義的>事業(enterprise)が自動的にその人々を享楽的愉楽の専一的追求へと人々を駆り立てる、というのではない。
 資本主義的経路を専一に辿ってきたインドを見てみよ。
 にもかかわらず、この国では、伝統的な社会諸構造の普遍的拒絶は生じていない。
 人々は、個人的達成よりもコミュニティとの諸絆の方を優先する。
 自分の長老達への敬意が若者の自律に対する強力な牽制であり続けている。
 若干の人々は、これらの諸伝統の存続を、全球的資本主義への抵抗の一形態と見ている。
 そういう人々は間違っている。
 かかる諸価値に忠実であることは、逆説的だが、どうして、資本主義の苛烈な論理が、欧米におけるよりも、より、支那、シンガポール、そして、インドといった諸国で徹底的に抱懐されてきたか、の理由なのだ。
 市場は、耐え難い諸傷を人々が受ける容赦なき場だ。
 その見返りとして与えられるものが自分の諸気まぐれを満足させる機会が全てだとすれば、これに自分自身の折り合いをつけることは困難だ。
 他の人々の運命に対する自分の無関心を倫理的諸用語によって正当化するには、伝統的諸価値へと後戻りする方がはるかに容易なのだ。
 「私はそれを両親のためにやった」、「私は、従兄達が勉強ができるようにそれをやった」、と。
 かかる理論的根拠群は、「私はそれを自分自身のためにやった」よりもはるかに口当たりが良いのだ。・・・
 <要するに、資本主義下においては、>我々は、「自由な」諸選択・・一人ぼっちで行わなければならない諸決定・・を行うことを恒常的に強いられているのだ。
 我々が、それらを賢明に行いうるに十分な知識を有しているかどうか分からないというのに・・。
 仮にこれが自由だとして、それは重荷なのだ<が、非欧米ではその重荷が大幅に軽減されている、というわけだ>。」
⇒アングロサクソン諸国・・できそこないのアングロサクソンたる米国をここでは含む・・以外で採択された資本主義は、どうやら、その社会を、原則、不安定化させるものであるらしく、ジジェクが挙げる、支那、シンガポール、インドの3カ国は、その数少ない例外・・但し、人口的にはかなり大きい・・である、ということになります。
 しかし、果たして、本当にこの3国は例外なのでしょうか。
 シンガポールは、前述した理由で捨象してもいいでしょう。
 残るは支那とインドです。
 しかし、インドは、独立後長らく英労働党譲りの社会主義経済だったのであり、資本主義化に乗り出したのは、支那よりも12年遅れた1991年のことであって、しかも、まだその途上にある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ことから、評価を下すのは時期尚早でしょう。
 では、最後に残った支那はどうか。
 支那の経済体制は、典型的な資本主義ではなく、(エージェンシー関係の重層構造からなる)柔らかい組織を主、市場を従とする日本型経済体制なのであり、日本・韓国・台湾の経済体制同様、広義では資本主義だけれど、狭義においては資本主義ではないのです。
 結局のところ、典型的な資本主義経済が安定的に機能しているのはアングロサクソン諸国においてだけであり、後は、資本主義「的」経済が、西欧(の一部)と日本型経済体制諸国においてのみ、安定的に機能している、ということになります。(太田)