太田述正コラム#0309(2004.4.4)
<英仏協商100年(その1)>
1 始めに
4月8日に、1904年に英仏協商(Entente Cordiale=Friendly Understanding)が締結されてから100周年を迎えます。
英仏両国政府はこの100周年を祝うことで、イラク戦争を契機に軋轢が顕在化している両国関係の正常化を図るべく、共同サイト(http://www.entente-cordiale.org/en/1a.html)を立ち上げ、今月にはエリザベス女王がフランスを訪問し、これを皮切りに様々な記念行事が行われ、11月にはシラク大統領が英国を訪問する予定です。
英仏協商は、フランスによるモロッコの支配と英国によるエジプトの支配を相互に認め合うとともに、タイ、マダガスカル、ニュー・ヘブリデス諸島、西アフリカ、中央アフリカ、ニューファウンドランド等における両国間の紛争の解決を期し、締結されたものです(上記サイト)。英仏協商締結の背景として、英仏両国共通の懸念であったドイツの勃興があるとされています(注1)。
(注1)1882年にドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアは、ロシア及びフランスを仮想敵国とした三国同盟を締結する。これにより、フランスはドイツに脅威を感じており、英国はドイツの海軍力増強に脅威を感じていた。なお、英仏協商締結の三年後の1907年、やはりドイツに脅威を感じていたロシアがこれに加わって三国協商となる。ロシアはオーストリアーハンガリーの膨張にも脅威を感じており、セルビアに三国同盟の構成国から攻撃を受けた時は助ける約束をしていた(http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWentente.htm。4月5日アクセス(以下、特に断らない限り、同じ))この三国同盟対三国協商の構図の下で1914年、第一次世界大戦が勃発する。
この協商の締結を契機に、英仏は実に800年間に及ぶ両国の戦争(冷戦を含む)に終止符を打つことになります。
このように書いてくると、あたかも英仏協商の締結は歴史の必然であったかのようにお感じになるかもしれませんが、実はありえないことが起こった、というのが本当のところなのです。
なぜ「ありえないこと」なのか。
理由は二つあります。一つは締結に至った本当の経緯の偶然性であり、もう一つは、(独仏間係とは全く異なり、)いまだにイラク戦争一つとっても英仏が角を突き合わせているという実態です。
2 英仏協商締結の経緯
ジョージ一世以来、ハノーバー王家の血筋を引くイギリス王室のビクトリア女王が、ドイツのSaxe-Coburg-Gotha公爵の息子のアルバート(ビクトリアのいとこ)と1840年に結婚し、ビクトリアがアルバートの強い影響を受けたこともあり、(http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PRalbert.htm及びhttp://www.royal.gov.uk/output/Page128.asp)イギリス王室は親ドイツ色を強めます。
1901年にビクトリアが亡くなった時には、臨終の場に彼女の孫の一人であったドイツの皇帝ウィルヘルム二世の姿があったほどです。
しかも、1904年に至る11年間に二回も戦争の瀬戸際まで行くほど英仏関係は不安定でした。
にもかかわらず、英仏協商が締結されるという椿事が出来したのは、ビクトリアの長男にして道化のごときエドワードが、ビクトリア没後イギリス国王(エドワード七世)に就任したからなのです。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1173560,00.htmlによる。)
(続く)