太田述正コラム#7520(2015.3.3)
<映画評論45:ベイマックス(その6)>(2016.6.18公開)
3 米国人の日本観
既に、米国人の日本観についても、ロボットの話を通じて若干触れてはいますが、改めて、取り上げたいと思います。
まず、この映画の原作であるアメコミにおける日本観から始めましょう。
この映画の筋を考えたチームの責任者は原作のうち数冊を読んだだけで、脚本を担当した3人のうちの1人に至っては原作を全く読まなかった(β)、とはいえ、原作は原作だからです。
その原作のさわりのさわりは次のようなものです。
「・・・物語の設定は、「広島と長崎への原爆投下によって被害を受けた日本は核兵器を廃絶し、その代わりに自国を守る手段として超能力を持つ人間を集め、ビッグ・ヒーロー・シックスを結成した」というもの。・・・
ヒロ・タカチホ (Hiro Takachiho)<は>・・・人造生命体ベイマックスを作った。・・・
<この、>ベイマックス (Baymax)<は、>・・・人間に近い外見からドラゴンのような形態に変身することができる。またベイマックスのメモリ・チップは、ヒロの亡き父親の思考と感情を保持するようにプログラムされている。・・・
エヴァーレイス (Everwraith)・・・幽霊のように半ば実態のない姿をもつ敵。通常の攻撃ではその身体を傷つけることができない。テレポートと飛行能力を有する。核エネルギーを吸収し、ネクロプラズミック・ブラストを放射する。エヴァーレイスは、第二次世界大戦における広島と長崎の原爆で死亡した犠牲者の残留アストラル体の悪しき顕現である。エヴァーレイスは誕生してから数十年、日本人を大量虐殺した米国に対する復讐を計画し続けた。しかし、戦争の記憶とともに核の記憶が日本人から薄れ始めると、エヴァーレイスの存在そのものが弱まり始めた。彼は、自らが愛する国ニッポンが、究極の愛国者たる自分に背を向けたと思い、日本の文化を彼/彼らが死ぬ以前の姿に戻したいと望んだ。彼は、核による大虐殺こそが日本に経済的かつ技術的な優越性をもたらしたとして、日本が現在の惰弱さから抜け出して再発展するためには再び日本を核の炎で焼く必要があると狂信し、そのためにサンファイアのミュータント能力を悪用しようと画策した。ビッグ・ヒーロー・シックスの活躍で彼の暴走は食い止められ、サンファイアの怒りの炎で焼き尽くされたエヴァーレイスは今度こそ本当の死を迎えた。・・・」
γ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
少なからぬ米国人の心中深く隠されているところの、原爆投下等に関する日本人に対する罪悪感が吐露された強烈な原作であると言えるでしょうね。
もっとも、戦後日本人の大部分は、恐らく、これら米国人の想像を絶することでしょうが、原爆投下等に関して米国にふくむところは全くないのですが・・。
(なお、「日本<の>経済的かつ技術的な優越性」という認識は、このアメコミが2008年の1年続かなかったシリーズである(γ)ことからすれば、ほぼ現在と言ってもよいのであって、現在なお、米国内で日本がそのように見られている、ということはちょっとしたうれしい驚きです。)
それが、映画ではどうなったでしょうか。
日本語ウィキペディアにはこうあります。
「映画化に際し、作品の舞台が東京から、東京とサンフランシスコを混ぜ合わせた未来の架空の都市「サンフランソウキョウ」へと変更され、チームメンバーも多人種の混成チームとなった。ロボットのベイマックスも原作ではドラゴン風の顔を持つ人造生命体だが、映画では看護ロボットへと改変されている。ストーリーも超能力を持ったヒーローが悪を倒すのではなく、メンバーのそれぞれが自身の能力を活かして協力する姿や主人公を取り巻く友情や家族愛に、力点が置かれている。日本的要素が多く散りばめられ、スタッフによって撮影された東京の風景が数多く取り入れられており、日本の立体看板なども採用されている。また、ベイマックスの頭部は神社の鈴をモチーフにしている。・・・
舞台となる架空都市サンフランソウキョウは、サンフランシスコにあるヴィクトリア様式やクィーン・アン様式の建物に日本のディテールを加えるなど、サンフランシスコの象徴的イメージに日本的要素を加えてリメイクした(例:ヒロの自宅)。製作チームの日本での取材旅行で印象的だったものに、ゴミ箱から自販機、歩道タイルに至るまでに見られる日本のデザインの丁寧な仕上がりがあったため、サンフランシスコの実際の街をベースに、その丁寧さと東京的なテクノな雰囲気を加味した。・・・
ちなみに韓国でリリースされた際には、主人公の「ハマダ・ヒロ」という名前が「Hero Armada」という名前に置き換えられ、主人公の兄の「タダシ」という名前も「Teddy」に置き換えられた。また、劇中登場する日本風の街並みの看板も日本語表記を英語表記に変更されている。」(α)
私の言葉で言えば、単純な勧善懲悪ものではなく、日本的な人間主義ものとして作られた、ということです。
そして、英語ウィキペディアにはこうあります。
「この映画のアニメーション・スタイルとセッティングに関し、この映画は、(圧倒的に日本のだが)東の世界の文化と(圧倒的にカリフォルニア州のだが)西の世界とを化合(combine)させている。・・・
サンフランシスコと東京の未来派的なマッシュアップ<(注8)>である、サンフランソウキョウ(San Fransokyo)は、ホールによって、「サンフランシスコの代替(alternate version)バージョン。そのテクノロジーの大部分は先進的だが、その多くはレトロな感じがする・・・」と描写されている。
(注8)ウェブ上に公開されている情報を加工、編集することで新たなサービスとすること。
http://ejje.weblio.jp/content/mashup
ディズニーが(漫画本版の舞台である)東京とサンフランシスコとを融合(merge)させようとしたのは、部分的には、サンフランシスコが、<ディズニーの傘下の、漫画本を原作とするアニメ制作部門であるところの
http://waltdisneystudios.com/corp/unit/246 >マーベル(Marvel)が、サンフランシスコを<映画の中で舞台として>使ったことがなかったこと、及び、この都市の図像的な<(注9)>諸側面(aspects)、に加えて、彼らが、この都市が東京と美学的にうまく混ざり合う(blend)と感じたこと、による。
(注9)「何らかの主題・象徴を担う画像」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B3%E5%83%8F-541931
的。
この映画制作者達の観念は、破滅的な1906年の地震の後に、サンフランシスコが日本の移民達によって概ね再建されたという異世界(parallel universe)に立脚している。
この前提は映画の中では実際に述べられることはないが・・。」(β)(注9)
(注9)サンフランシスコ在住の女性著述家にして編集者は、サンフランシスコの「金融街を歩いて通っている時には、その街路群が純真な(wide‐eyed)機会主義者達を乗せた初期の船々の竜骨群の上に構築されたことを知っておいた方がよい。
不安定な断層の真上にあるところの、急激な好況群(booms)と急激な不況群(busts)によって規定される都市であるサンフランシスコは、非永続性(impermanence)の感覚を体現している。
それは、現実の都市であると同時に夢の都市であり、そのことを証明する山のような文学作品が存在する」、と記している。
http://www.theguardian.com/books/booksblog/2015/feb/26/reading-american-cities-books-about-san-francisco
(2月27日アクセス)
このサンフランソウキョウに象徴される発想は素晴らしいと思いました。
制作陣にはそこまでの深い考えはないと思われるけれど、米国は、日本化することによって、日本文明を全面的に継受するところまではいかなくても、少なくともまともな文明に変貌する可能性があったのですからね。
しかし、このような発想が出てくるのが遅すぎたし、このようなフィクションの形でしかいまだに出てきていないことからすると、米国の日本化はもはや殆んど不可能である、と言わざるをえないでしょう。
それはともかく、1974年から76年にかけての2年間、東京都民として、サンフランシスコの郊外に滞在した私は、サンフランソウキョウという都市が舞台になっているだけで、この映画に大変な親近感を覚えた次第です。
(続く)
映画評論45:ベイマックス(その6)
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