太田述正コラム#7538(2015.3.12)
<「個人」の起源(その5)>(2015.6.27公開)
(4)否定的評価
(この本に係る、前回のシリーズ中のコラム#6735、6739、6743・・2(3)サイデントップの主張に対する批判・・を参照されたい。)
(5)肯定的評価
「<サイデントップ>は、「本来的に自分と平等な存在である<というのに、>他者達を支配しようと試みる者は、許し難い思い上がり(pride)でもって行動している」、と語った聖アウグスティヌス、及び、「一人の男が彼の仲間達と平等であることを蔑ろにするならば、彼は背教者のようなものだ」、と語った、大聖グレゴリウス(Gregory the Great)<(注12)(コラム#3447)>、を引用している。
(注12)グレゴリウス1世(540?~604年。法王:590~604年)。「グレゴリオ聖歌の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B91%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
ちなみに、グレゴリウス暦は、「1582年に<法王>グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦法」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6
⇒聖俗分離のキリスト教教義の下では、人と人との平等は聖なる世界においてだけのものでしかありえません。なお、当然のことながら、この平等すら、キリスト教徒同士においてのみあてはまるわけです。(太田)
或いはまた、ある司祭がフランス国王に伝えたように、「若干のいわゆる賢人達は、王子(prince)が国王になれば、諸法、ないし、誰のであれその判断、に従わなくてよいと言う。
しかし、こんな言葉は涜神で溢れているのであり、諸国王は、神の名の下に<彼を国王として>聖別(anoint)した者達に従わなければならないのだ」<、とも。>・・・
⇒これは、単に、国王だって、自分を聖別してくれたのだからなおさら、神に従わなければならない、という中身のない話に過ぎません。(太田)
聖パウロは、イエスの諸教えの熱心な擁護者になるために、それらに対する拒否反応を克服したところの、大勢のローマ臣民達のうちの一人だった。
彼の著作群は、古の諸偏見から決して自由ではなかったけれど、それら<の著作群>は、家父長的家族(patriarchal family)、から、各自が神の慈悲深い恩寵の平等なる裨益者たる個々の成員達、へと道徳的関心の対象を移すことに貢献した。
全ての信者が私的に僧侶と会うことができなければならないとの観念は、女性達や子供達に家族の外において導きと支援を求めることを可能にし、キリスト教を、ある意味で、世界で最初の平等な機会に係る宗教にした。
⇒当時、いや、ある意味では現在でも、地中海世界や、それと大幅に重なる西欧(、そして米国、)において、いかに年長者がのさばり、女性が差別され、子供が虐待されているかが透けて見えてくる、恥ずかしい話でしかありません。(太田)
貴族的な戦士たる英雄達に関する古の叙事詩群は、サイデントップの言によれば、「万人に開かれた英雄主義(heroism)の模範を提供した」殉教者達の物語によって置き換えられ始めたのだ。
⇒権力、カネ、或いは異性を巡る素朴な制限戦争の時代が、宗教/イデオロギーを巡る、或いは宗教/イデオロギーに藉口する、おどろおどろしい、無制限戦争の時代へと置き換わった、ということです。(太田)
4世紀の初めに<ローマ>皇帝コンスタンティヌス(Constantine)<(コラム#413、1026、1761、2766、3475、3483、4009、5396、5432、6477、6722)>がキリスト教に改宗した時、彼は、自分自身が、自分自身、自分の家族、及び、ひと握りの長老達(patriarchs)、に対してのみならず、聖なる摂理によって見守られている個別の人々の大群に対しても責任を負った。
⇒宗教やイデオロギーによる他律的人間主義は、心の内側から湧き出でる本物の人間主義とは似て非なるものです。(太田)
この帝国的事業(project)は、ローマで、500年後に、法王がカール大帝(Charlemagne)<(注13)(コラム#2382、3438)>の頭に冠を載せ、この帝国がそのキリスト教徒たる臣民達全員の誓約された同意なくして統治されるべきではないことを示(signify)した時に再活性化された。
(注13)742~814年。フランク国王:768~814年。ローマ皇帝:800~814年。「カールが強力な軍事力で東はエルベ川から西はピレネー山脈を越えてエブロ川、北は北海沿岸から南は中部イタリアに広がる広大な土地を支配するに至った目的は、教父哲学におけるキリスト教の伝承と合致したかたちでフランク人の社会を変革してゆくことであった。教会の学問を世俗政府の中枢において営み、伝道を実現しようとしていたのである。・・・
東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでには全くなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称に過ぎないと見なされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
英語ウィキペディアは、カールの皇帝任命は、当時、息子コンスタンティヌス4世を廃位し、自らコンスタンティノープルで女帝となっていたイレーヌの皇帝位を認めず、全ローマの皇帝・・西ローマ皇帝が廃位された時点で、東西ローマは一つになったと考えられていた・・の任命である、と法王(レオ3世)によってみなされた、としている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charlemagne
⇒「帝国がそのキリスト教徒たる臣民達全員の誓約された同意なくして統治されるべきではないことを示(signify)した」という話は、英語ウィキペディア(上掲)に出てきません。それはともかく、法王がイレーヌの皇帝位を認めなかった最大の理由が、実は、彼女が女性だったから(英語ウィキペディア)であったことも、いかに、キリスト教自身が女性差別宗教であるかを裏付けるものです。(太田)
次いで、西欧において新しく設けられた修道院群は、集団的自治(self-government)という先例のない模範を提供するとともに、地味な(humble)労働に対してそれまでは決して付与されなかったところの、威信(dignity)を付与(endow)した。
⇒クリュニー改革が起こったのは10世紀ですが、日本では、それより前の9世紀に、天台、真言両宗派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4RNOA_jaJP583JP584&q=%e7%9c%9f%e8%a8%80%e5%ae%97
という仏教内の新興2宗派が興っており、教団自治はもとよりですが、(カトリック教会一本の西欧とは異なり、)宗派の自由すら確立した、というのが私の理解であり、この点でも、欧州やイギリスに比しての日本の先進性が現れています。
なお、日本では、それこそ、神代の昔から、「地味な(humble)労働に対して・・・、威信(dignity)を付与(endow)し」てきたところです。(太田)
修道院群は、やがて、大学群・・その文科諸学部において容赦なき論理的討論(disputation)<の気風>を育成するとともに、それらの法科諸学院は、世俗権力の自治を確立し、紛争当時者達全員に公正にして道理ある聴聞<の機会>を与えるという原則に立脚した新しい正義の形態をひねり出した・・という、核心的な教育諸機関の国際網と手を携えることになった。
⇒大学の起源については前に(コラム#7468で)触れたことがありますが、キリスト教と結びついた、地理的意味での欧州における、大学の早期からの隆盛について、ここで深入りすることは控えたいと思います。(太田)
人間の実存は、実際的にも知的にも徹底的に改造(remodel)され、自意識的主観性という新しい形態が生まれた。
理性は、一枚岩たる外部の権威であることを止め、それ自身を、我々一人一人が我々の能力の限りを尽くして行使すべき個人の才能(talent)へと変容せしめた。
同時に、宇宙の客観的構造に刻まれた自然道徳諸法という古の観念は、我々一人一人に内在するところの、我々の私的良心の権威のみに従う、自然諸権の観念(notion)へと道を譲った。
⇒この全ては、カトリック教会の教義の枠内での話であり、前述したように、日本では、仏教内の複数宗派の並存は9世紀から、また、神道と仏教の並存に至っては、6世紀から始まっており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
日本における、宗教、広くは思想の自由・・「私的良心の権威のみに従う」との「観念」・・は、欧州やイギリスよりも、はるかに長い歴史を有する、と言えそうです。(太田)
(続く)
「個人」の起源(その5)
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