太田述正コラム#7542(2015.3.14)
<「個人」の起源(その7)>(2015.6.29公開)
⇒エドマンド・バークは英国教徒でしたが、アイルランド生まれにもかかわらず、イギリス人意識を持っていた
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Burke
ことから英国教徒であり続けただけであり、しかも、英国教そのものがキリスト教をアングロサクソン的な自然宗教化したところの、かなりいい加減な宗派であったこともあり、彼の思想がキリスト教の強い影響下にあったとは到底思えませんし、ジョン・スチュアート・ミルに至っては、その英語ウィキペディアに、Region Western Philosophy と記載される無神論者でした
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Stuart_Mill
・・ちなみに、彼の父親のジェームズ・ミルも、その英語ウィキペディアに、Region Historian/Philosopher とあり、(出発点はスコットランド教会の牧師であったけれど、)無神論者となった人物であり、ジョンは、学校に行かず、このジェームスの個人的教育の下で人となった・・から、当然、彼の思想にはキリスト教の影響など殆んどなかった、と言ってよいでしょう。
この書評子は、キリスト教は、本来、社会的自由を追求する宗教である、という彼独特の解釈の下で、サイデントップの言う「個人」とは、社会的自由信奉者である、と措定して、サイデントップに肯定的評価を与えているところ、この書評子が挙げる、典型的な社会的自由信奉者2人は、残念ながら、どちらも、キリスト教の申し子などではなく、個人主義を人間主義的なもので補完することを旨とする、アングロサクソン文明の申し子なのである、というのが私の見解です。(太田)
21世紀のリベラリズムは、<社会的自由ならぬ個人的自由を信奉しており、>この19世紀の祖先とは似ても似つかぬもの(a pale shadow)だ。
若干の名誉ある諸例外はあるものの、熱情と楽観は消え去ってしまった。・・・
キリスト教の啓示(revelation)の核心に存在する平等主義的個人主義はいちどきに優勢(prevail)にはならなかった。
(実際、それは現在においてすら、優勢にはなっていない。
すなわち、諸不平等は増殖しており、父権制(patriarchy)が生き残っている。)
異教の諸習慣や諸慣習もまた、時にはキリスト教の衣を纏って生き残った。
冬至のお祭りはクリスマスとして再構成(reprogram)されたし、地域の聖人達にお祈りをする慣行とこれら聖人達の聖遺物群<の崇拝>は、地域の異教の諸祭儀を模倣し<て生み出され>たものだ。
4世紀の<ローマ>皇帝コンスタンティヌスのキリスト教改宗の後、司教達は、異教の諸時代の都市生活において名士達(notables)が支配的であったことを思い起こさせるように、しばしば都市の諸貴族の地位の人々(ranks)の中から選ばれた。
後に、司教<(注14)>達と大修道院長達は、ややもすれば、世俗的な諸卿になったり、時には、諸軍を率いて戦闘へと赴いたりさえしたものだ。
(注14)英語はbishopで同じだが、カトリックでは司教、プロテスタントでは監督、英国教では主教と訳す。ちなみに、イギリスとウェールズには約40名の主教がいて、それぞれ主教区を統括している。
http://ejje.weblio.jp/content/bishop
時々、教会の諸職位は買ったり売ったりされた。
ローマでは、法王の座が、「貴族的諸家族の慰みもの」になった。
巨大な溝が、普通の俗人達と、強力な司教達や金持ちの諸修道院の大修道院長達といった、カトリック教会の諸公達、とを隔てていた。・・・
<そのような中で、>適切にも、イギリス宗教改革の「明けの明星」であるジョン・ウィクリフ(John Wycliffe)<(コラム#6310、6338、6973、6974、7025、7027、7037、7187、7324)>は、一時、オックスフォード大学のバリオル(Balliol)カレッジの長だった。
15世紀初頭には、<このウィクリフを始めとする>哲学者達や教会法法学者達が、「リベラリズムのルーツ」を確立した、とサイデントップは記す。」(G)
⇒何度もこれまで指摘していることですが、ウィクリフは、キリスト教徒としてというよりは、一アングロサクソン人として、カトリック教会、つまりはキリスト教に対する批判を行ったのであり、それが、結果として、欧州文明諸国において、宗教改革、より直截的に言えば、カトリック教会の分裂によるキリスト教宗派の乱立、をもたらしたのです。(太田)
(続く)
「個人」の起源(その7)
- 公開日: