太田述正コラム#7548(2015.3.17)
<「個人」の起源(その9)>(2015.7.2公開)
 サム・ハリス(Sam Harris)<(コラム#5284、6483、7175、7300、7302)>は、米国の神経科学者であって、『信仰の終わり–宗教、テロ、そして理性の将来(The End of Faith: Religion, Terror and the Future of Reason)』 (2004年)、及び、『道徳的風景–いかに科学が道徳的諸価値を決定できるか(The Moral Landscape: How Science Can Determine Moral Values)』 (2010年)、の著者だが、彼は、恐らくは、最初の「新しい無神論者達」であるところ、この点を指し示している。
 多くのこれまでの無神論諸イデオロギーに倣って、ハリスは「科学的道徳性」を欲しているけれど、この種の無神論のこれまでの唱道者達は、科学を、現在では誰もが非リベラルであることに同意するであろう諸価値を支えるために使ったのに対し、彼は、自身が「善と悪の科学」と呼ぶところのものが、内容においてリベラル以外のものたりえないことを当然視している。
 (全ての人々が、ハリスのリベラル的諸価値・・それは拷問の実践を容認(sanction)するように見えるのであって、彼は、2004年に、「人々が対テロ戦争が要請するところのもの(exigencies)を信じていることを踏まえれば、特定の諸事情の下における拷問の実践は許されるだけでなく必要でさえある」、と記したところだ・・に同意することはないだろう。)・・・
⇒これまで何度か取り上げてきた話題ですが、「緊急は法をもたない」という法諺は、古今東西を問わず、あらゆる社会に共通する根源的規範・・欧州文明の概念を用いれば自然法・・なのであって、
https://books.google.co.jp/books?id=fK-quuPAyFgC&pg=PA141&lpg=PA141&dq=%E7%B7%8A%E6%80%A5%E4%BA%8B%E6%85%8B%E3%81%AF%E6%B3%95%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84&source=bl&ots=_y_tZb0uWg&sig=JfrhtLSIgT69WFtMyCwRJAlKJKA&hl=ja&sa=X&ei=7wUIVajcO8ff8AXvmIKQBA&ved=0CD0Q6AEwBg#v=onepage&q=%E7%B7%8A%E6%80%A5%E4%BA%8B%E6%85%8B%E3%81%AF%E6%B3%95%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84&f=false諸人権なるものも、有事においては、当然、停止されることがあるのです。
 平時において、法治主義、或いは、法の支配、が貫徹している社会においては、そうでない社会とは違って、有事において法が停止された場合、それがはっきり目に見える、というだけのことです。
 従って、ハリスのかかる見解に異論を差し挟む余地は全くない、と私は考えます。(太田)
 <しかし、世界を見渡せば、無神論どころの騒ぎではない。>
 <Isisのような>暴力的な聖戦主義の興隆は、世俗的生活の拒絶の最も明白な事例であるに過ぎない。・・・
 宗教の復活(resurgence)が世界に遍く展開されているのだ。
⇒少なくとも、拡大英国、欧州、支那(後述)、及び、日本、においてはそうではありません。(太田)
 ロシア正教は、これまでの1世紀のどの時期よりも強力になっており、支那では、土着の諸信仰の再覚醒、及び、今世紀末には世界最大のキリスト教国たらしめうるところの非合法諸運動、の光景が見られる。
⇒ロシア政府はロシア正教を盛り立てているのに対し、中共当局は合法諸宗教・宗派を完全統制下に置くとともに非合法宗教・宗派に徹底的な弾圧で臨み、その一方で、日本の人間主義による人民の教化に努めていることから、中共で宗教が見通しうる将来において、力を持つに至る可能性は少ないでしょう。(太田)
 また、米国の敬虔度の低下の証拠として囃し立てられるような、あやふやな世論のぶれにもかかわらず、同国は、大規模かつ圧倒的に宗教的であり続けている。
 例えば、<米国で、>不信心であることを告白した者が大統領になりうるなど、想像もできない。・・・
⇒これは、米国の異常性・・米国人の好きな言葉を使えば米国の例外性(exceptionality)・・を示すもの以上でも以下でもない、というべきでしょう。(太田)
 ニーチェが現代の無神論志向の主流から除外されてきた理由は、彼が無神論が持つ問題が道徳性であることを暴露したからだ。
 それは、無神論者達が道徳的たりえないという、極めて多くの感傷的な人々(mawkish)が議論するところの事項(subject)ではない。
 問題は、特定の無神論者が仕えるべきなのは、一体いかなる道徳性なのか、なのだ。・・・
 ニーチェには、近代リベラリズムは、・・・宗教的諸宗派(traditions)の世俗的な化身(incarnation)であることが分かっていた。
 <スイスのバーゼル大学の>古典文学の学者(classical scholar)として、彼は、神話的なギリシャの理性信仰が、そこから近代リベラリズムが出現したところの、文化的鋳型(matrix)を形成したこと、を認識した。<(注16)>
 (注16)古典ギリシャ文明は、本来、ディオニュソス的(Dionysian)要素(音楽/情動)とアポロン的(Apollonian) 要素(造形/理性)のバランスがとれており、その精華が演劇(悲劇)だったが、悲劇を終わらせた戯作者エウリピデス(Euripides)と主知主義へと導いた哲学者ソクラテス(Socrates)の出現によって、後者の要素に偏り、爾後、ローマも欧州もそれを踏襲したが、ドイツ精神は音楽の隆盛にも象徴されているようにディオニュソス的であって、この偏りが是正される可能性が出てきた、とニーチェは処女作である1872年の『悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)』・・原題は『音楽の精神からの悲劇の誕生(The Birth of Tragedy from the Spirit of Music)』・・の中で主張した。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Birth_of_Tragedy
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
 古のストア派のうちの若干は、世界主義(cosmopolitan)社会の理想(ideal)を擁護した。
 しかし、これは、後に、我々がよく知っている神の概念へと吸収されて行ったところの、合理性(rationality)の不朽の原則たるロゴス(Logos)を人間達が共有している、との信条に立脚していた。<(注17)>
 (注17)「ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は、神が定めた世界の神的な論理を「ロゴス」と呼び、ときにこれを神とも同一視した。・・・また人間は世界の一部であり「人間の自然本性」としてロゴスを持って生まれているとされる。こうした「人間の自然」としてのロゴスはダイモーンやヌースとも呼ばれ、これに従った生き方が賢者の生き方であるとされる。
 キリスト教の成立にあたり、このようなロゴス観は大きな影響を与えた。
 『ヨハネによる福音書』の冒頭では以下のように述べられる。・・・はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった<と。>・・・これはキリストについて述べたものと解され、三位一体の教説の成立に当たって重大な影響を及ぼした。ロゴスは「父」の言である「子」(=イエス)の本質とみなされた。これにより「ロゴス」はキリストの別称ともなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9
 ニーチェは、リベラリズムの最大の諸源泉はユダヤ教とキリスト教という一神教(teizm)であること、をはっきりさせた。
⇒リベラリズムの最大の源泉は、私見では、アングロサクソン文明、すなわち、個人主義文明なのであって、サイデントップ同様、ニーチェもまた間違っています。
 ユダヤ教/キリスト教由来だと思いこんだところのリベラリズムをサイデントップは肯定し、ニーチェは否定しているわけですが、この2人は根本認識が間違っているのですから、どうしようもありません。
 このアングロサクソン文明が個人主義文明たるゆえんが、私見では、アングロサクソンがゲルマン文化(精神)の核心たる個人主義を維持したところにあるのですから、その核心をローマ化することによって失った、いわば「堕落」したゲルマン文化であるドイツ文化(精神)を称揚したニーチェなど、私には道化にしか見えません。(太田)
 だからこそ、彼は、これらの諸宗教に対して激しく敵対的であったのだ。
 彼は、かなりの部分、自身が<かかる>リベラル的諸価値を拒絶したからこそ無神論者になったのだ。
(続く)