太田述正コラム#7572(2015.3.29)
<『チャイナ・セブン』を読む(その4)>(2015.7.14公開)
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<参考:中国共産党創建者達と日本の深い関係>
 これまで、太田コラムの随所で、表記について触れてきたところだが、この際、改めて、簡単に纏めておこう。
 「中国共産党<は、>・・・1921年7月に、コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
わけだが、この中に登場する3名については、以下の通り。
●陳独秀(1879~1942年):日本の成城学校に留学、その後日本に1度亡命。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80
●李大ショウ(1888~1927年):早大政治学科に留学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6
●毛沢東(1893~1976年):「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。・・・
 毛沢東は米国記者エドガー・スノーに日露戦争当時<と彼が称したところ>の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している・・・。
 「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
 当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです。・・・
 日中戦争では・・・毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。・・・<また、彼>は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
 毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった。・・・
 毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。・・・
 1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
 更に、もう一人挙げておこう。
●周恩来(1898~1976年):「1917年<~19年>に、日本に留学。・・・東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。・・・
 <日本の敗戦後、>最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑され・・・不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。・・・
 <また、>1971年関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
「日本民族は偉大な民族です。昔、元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで侵略しましたが、日本は二度、この侵略を撃退しました。・・・明治維新をことごとく反動的なものと決めつける見方がありますが、これは誤っており一面的です。明治維新は二面性を持っています。これは史的唯物論の見方です。進歩的な一面とは民族統一と西欧文明を吸収して資本主義を発展させたことです。」
 <はたまた、>中国東北地区方正地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった・・・周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し「方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、あの文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
 周恩来は、「毛沢東との人間関係においては、・・・「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した」(上掲)人物であり、日本関係の彼の以上のような挿話は、ことごとく毛沢東の意向に合致したものであった、と考えるべきだろう。
 トウ小平と習仲勲・・習についての具体的な話は本文中で後述・・という、日本との関わりが、これら創建者達ほど濃厚ではなかった中国共産党の毛沢東後の有力者2人は、これら創建者達が、支那をして日本に追いつかせ、追い抜かせるために、日本が採用しなかったけれど、その日本を通じて学んだところの、共産主義を採用したことが致命的な誤りであったことを、中華人民共和国発足後の経済面での累次の大蹉跌を目の当たりにし、自分達自身が文革期にひどい迫害を毛沢東らから受けることで、かつ、日本の高度成長を横目で見せつけられることで、痛切に自覚するに至った結果、日本そのものを学び、支那に日本文明を継受させる決意を固めた、と私は見ているわけだ。
 思うに、このような見方は、ごく自然なものであって、これ以外に考えられないのではなかろうか。
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(続く)