太田述正コラム#7598(2015.4.11)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その6)>(2015.7.27公開)
「開戦直後の12月18日、南機関長・鈴木敬司大佐はバンコクの武官室に田村浩大佐を訪れ・・・大川塾生2人を南機関へ編入する・・・了解を得た。・・・彼らの身分は南方軍総司令部付事務嘱託、待遇は無給だった。彼らについては南機関がビルマ南部の要衝モールメン(現モーラミャイン)<(注13)>に達した時点で任務から解かれる内約があった。・・・
(注13)「<現在、>モン人地域<たる>・・・モン州の州都<で、>人口は約30万人で<あり>、ミャンマー<(ビルマ)>第三の規模を有する。アンダマン海のモッタマ湾(マルダバン湾)に近い。タンルウィン川(サルウィン川)沿岸にあり、・・・対岸のモッタマからヤンゴン<(ラングーン)>へ鉄道・道路が通じており、モーラミャインからはマレー半島を下る鉄道・道路が延びている。・・・ジョージ・オーウェルは、一時英領インド帝国の警察官を務めており、<その>・・・赴任先であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3
ビルマ独立義勇軍(BIA)<(注14)>は・・・ビルマ人と日本人で構成されていた<ところ、>・・・鈴木は、・・・BIAと独立の前途を描いてみせた。
(注14)「太平洋戦争が勃発して日本と<英国>が戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイ領バンコクに拠点を移し、ビルマ独立義勇軍(<Burma Independence Army=>BIA)の編成に着手した。12月28日に宣誓式が行われ、タイ在住のビルマ人約200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成された。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージョー大将を名乗って就任、アウンサン(階級は大佐)らは参謀などとされた。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。
ビルマ独立義勇軍は、1942年(昭和17年)1月3日から、ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれた。ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進した。一部では敗走中の<英>軍と交戦した。3月25日には、首都ラングーンで4500人による観兵式を行った。4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問としての立場に退いた。ビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた。・・・
日本は、ビルマに軍政を敷いて、ただちに独立は認めなかった。ただし、バー・モウを首班とする自治政府の整備を進めた。それと同時に、日本軍は、ビルマ独立義勇軍の縮小再編を進める方針を決めた。これは、肥大化したビルマ独立義勇軍を規律のとれた国軍として整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を集めて日本の占領統治の妨げとなることへの危惧から、決まった方針だった。
1942年7月、ビルマ独立義勇軍は解散となり、3個大隊(2800人)からなるビルマ防衛軍(<Burma Defence Army=>BDA)が創設された。ビルマ防衛軍は、自治政府の下ではなく日本軍の補助部隊としての地位にあり、第15軍兵備局に隷属した。アウンサンらに同情的だった南機関は、解散させられた。将来的には1万人程度の規模まで拡大することを予定し、日本軍指導下での幹部養成のため、ビルマ幹部候補生隊も設置された。幹部候補生隊の卒業生の一部は、日本の陸軍士官学校へと留学している(第1期生からは30人が陸士57期に編入)。
1943年(昭和18年)8月、日本の指導下で「ビルマ国」(首班:バー・モウ)が独立すると、ビルマ防衛軍は、その国軍であるビルマ国民軍(<Burma National Army=>BNA)に移行した。軍事担当の官庁として国防省が置かれ、アウンサンが国防相に就任。後任の軍司令官にはネ・ウィン大佐が就くなど、国防省や軍の要職は独立義勇軍初期からの面々が占めた。」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8D
ネ・ウィン(ネウィン=Ne Win。1911~2002年)は、「1962年には、クーデターを決行して政権を握<り、>・・・1988年<まで、最高権力者の地位を保ったところ、>ビルマ独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)を採り、・・・近隣諸国の混乱に巻き込まれずに済んだ<が>、経済政策では完全に失敗し世界の最貧国に転落した。・・・<その間、>日本とは友好関係を保ちつづけ<、>・・・1982年には南機関関係者に勲章を贈っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3
独立政権は、日本軍のビルマ全土の攻略を待たず、ビルマ南部一帯のテナセリウム地区が勢力下に入った時点で樹立するとの見通しだった。
鈴木の構想はあくまで彼独自のものである。上部の第15軍、さらにいえば南方軍から承認を受けたものではなかった。それでものちの首相バーモウ<(バー・モウ)(コラム#5312、5610、5868、6394)>が「日本軍部に従属せぬことを示し、時には彼らを無視さえした」「夢を追い、他人にもそうさせる夢想家」(『ビルマの夜明け』などと評した彼の実行力は、BIAを動かしてゆく」(110、125~127)
⇒南機関員にさせられて無給で働かされた大川塾生もいたことや、鈴木の下剋上的な活躍ぶり、から、改めて、私の言う日本型政治経済体制の「柔軟さ」がお分かりいただけるのではないでしょうか。(太田)
「鈴木大佐から、<上出の大川塾生>らは、「・・・ビルマ独立義勇軍大尉に任ずる」と言い渡されている。日本軍で大佐だった鈴木がBIAでは大将に、新兵でも大尉から出発である。・・・
日本人の参加者は将校14人、下士官17人、軍属43人を数えた。
ビルマ人幹部には、高級参謀アウンサン少将を筆頭に、・・・ビルマ領内攪乱指導班班長ネウィン中佐・・・など<だった。>・・・
こ・・・のほか、ビルマ人志願兵200人が・・・バンコク<や>・・・チェンマイ<で>・・・募兵<された。>・・・
<こうして、大川塾生達>が国境を越えて植民地ビルマに入ると、タイとの違いに気づかされた。タイでは田舎の村でも学校があり、国旗が立っていたものだ。ところがビルマにはそれがない。植民地の現実だった。」(131~132、137)
⇒玉居子の書きぶりだと、日本の植民地も同じことになってしまいますが、ご承知の通り、日本は、台湾でも朝鮮でも、現地住民の教育に大いに尽力したわけであり、こういった点一つとっても、欧米の列強の中で最も「文明的」であった英国の植民地統治さえ、日本のそれに比べて遥かに非人間主義的な代物であったことが分かろうというものです。
なお、ビルマ人やインド人が、BIAやインド国民軍といった、国内の頭脳と国外の手足とからなるところの、独立のための秘密軍事組織を自分達のイニシアティヴで作ることができず、日本軍におんぶにだっこの形にならざるをえなかったところに、英国の非人間主義的植民地統治がもたらした荒廃を見、独立後のビルマやインドの苦難な歩みが必然であったことを痛感するのは、私だけではありますまい。(太田)
(続く)
『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その6)
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