太田述正コラム#7608(2015.4.16)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その11)>(2015.8.1公開)
「語学や土地になじんだ経験を買われていた大川塾生だったが、徴兵の網は彼らにもかけられた。・・・西川捨三郎は、1944年5月に徴兵検査を受け、10月には入営する。・・・
⇒戦前の日本における徴兵の平等性、徹底性には呆れます。(太田)
<しかし、>そこに長くはとどまらなかった。初年兵教育を終えた1945年(昭和20)1月の、印度支那派遣軍(第38軍)が新設した南部防衛隊に転属を命じられた。加わったのは特殊工作部隊「安隊(やすたい)」であり、適材適所の処遇だった。・・・
部隊はハノイの北部安隊、ツーランの中部安隊、サイゴンの南部安隊の三つに分かれていた。具体的な任務はフランス植民地軍についての情報収集、対日諜報源の封殺、安南宮廷要人の獲得、独立勢力による地下組織強化などだった。・・・
2月9日、政府と大本営が仏印軍の武装解除を含む仏印武力処理「明号作戦」の発動を決定した。フィリピンを攻めたアメリカ軍が、次に印度支那を標的にすると読み、敵対的なフランスの勢力を一掃しようというのだった。・・・
南部安隊に配置された・・・西川捨三郎は、信徒200万人といわれた新興宗教カオダイ教<(注27)>を取り込む工作に就いた。・・・
(注27)Cao Dai。「1919年(1920年説あり)<に二人のベトナム人>・・・によって唱えられたベトナムの新興宗教である。五教(儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教)の教えを土台にした[一神教。]・・・カオダイとはベトナム道教の最高神玉皇上帝のことであり、・・・第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる。・・・フランス領インドシナ時代には独自に私兵団や自治機構を持ち反フランス運動を展開する一方で、インドシナ戦争中にはベトミン・・・と戦った。ジュネーヴ協定によってベトナム共和国(南ベトナム)が成立すると、カトリック教徒の政権がカオダイ教やホアハオ教(和好教)、ビン・スエン派などの私兵団を武装解除する動きを見せたため、武力抵抗を図ったが鎮圧された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%83%80%E3%82%A4%E6%95%99
ベトナムの南北統一がなった1975年から、弾圧されたが、1997年に合法化された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cao_%C4%90%C3%A0i ([]内も)
1945年3月9日夜半、・・・「明号作戦」が発動された。・・・おおむね事前工作も功を奏し、・・・軍事施設、行政の要所、要人の逮捕、銀行の接収などを終えた。・・・
<「安南王都」の>ユエでは日本の指導下で独立準備が始まった。独立宣言文は「越南帝国はここに仏安保護条約を破棄し、完全独立を回復せることを宣言す」と謳った。バオダイ皇帝が内外にこの宣言文を発表したのは3月11日のこと。「越南帝国」がここに誕生した。首相に就任すべく、シンガポールからサイゴン経由で歴史学者チャン・チョン・キム<(注28)>がユエに到着した。
(注28)Tran Trọng Kim=陳仲金(1883~1953年)。「ベトナムの教育者、歴史・文学・宗教の研究者。・・・儒学の家に生まれて、幼いときから漢文を習った。・・・リヨンの商業学校に学び、のちに奨学金を得てフランス植民地学校で学んだ。1909年、ムラン師範学校に入学、1911年・・・に卒業して帰国した。・・・インドシナに進駐していた日本は1944年、・・・彼を国外に連れ出し、1945年に連れ戻した。・・・
連合国に日本軍が降伏したとき、チャン・チョン・キム内閣もまた1945年8月23日に崩壊した。しかしながら、この短い期間にあって、コーチシナをベトナムの名の下に統一するという重要な仕事を成し遂げた。また・・・フランス語の教育課程に代えてベトナム語での教育課程を作り上げた。青年部部長<(青年相?)は>・・・青年前線学校<を設立し>、後のベトナム民主共和国の将軍・士官を多く養成した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A0
コーチシナ(Cochinchine/交趾支那)は、「フランス統治時代のベトナム南部に対する呼称<であり、>・・・1887年には新設のインドシナ総督の下で<フランス>直轄領コーチシナ、保護国アンナム、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B7%E3%83%8A
この他に、保護国カンボディア、保護国ラオス(2つの王国からなる)があったわけだ。
トンキンは、「フエの宮廷はトンキンに副王を派遣して地方行政を管理させ、フランスがトンキン理事官を付けて監視させる体制<にあった。>・・・1887年にフランス領インドシナが成立すると、インドシナ総督府はハノイに設置され、総督はハノイとサイゴンを往復<していた>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3
同月13日、カンボジアのノロドム・シアヌーク<(注29)>国王が、次いで4月8日、ラオ氏のシー・サワン・ウォン<(注30)>国王が相次いで独立を宣言、仏領インドシナは解体された。
だが<防衛庁>公刊戦史『シッタン・明号作戦』<は、>「完全な独立とはいえない」と<している。>」(188~192、194、196)
(注29)ノロドム・シハヌーク=Norodom Sihanouk(1922~2012年。カンボディア国王:1941~55年、1993~2004年)。18歳で即位したこともあり(?)学歴なし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%8F%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%AF
(注30)シーサワーンウォン=Sisavang Vong(1885~1959年。ルアンパバーン国王:1904~49年。ラオス国王:1949~59年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%B3
「仏領インドシナ連邦下のラオスは、北部のルアンパバーン王国と南部のチャンパーサック王国とに分裂していた。しかし1945年3月9日に日本軍が仏印処理を断行してフランス軍を一掃し、フランス植民地政府を打倒すると状況は変わった。4月[7日]にルアンパバーンに到着した日本軍を見たルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王は、長年にわたるフランス支配が遂に終焉したことを知り、ラオス王国の国王として4月8日に独立を宣言した。しかし、南部には尚チャンパーサック王国が存続していたことから、王国の支配はラオス全域には及んでいなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B%E5%9B%BD
⇒「完全な独立とはいえない」からこそ、「コーチシナをベトナムの名の下に統一」するとともに、「フランス語の教育課程に代えてベトナム語での教育課程を作り上げた」、等は、日本軍の事実上の指示に基づいたものであったことは間違いないでしょう。(太田)
(続く)
『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その11)
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