太田述正コラム#7616(2015.4.20)
<『日米開戦の真実』を読む(その2)>(2015.8.5公開)
(2)大川より
「私は大正14年<(1925年)>、すなわち今から16年前に『亜細亜・欧羅巴・日本』と題する著書を公けにしております。
⇒欧州とアングロサクソンを一緒くたにした、「欧羅巴」という一言だけで、大川の、この本も、また、ラジオ放送も無価値である、と言いたいところですが、そんなことを言いだしたら、日本の有識者の述べたものは一切無価値である、ということになりかねないので、とにかく、先に進むことにしましょう。(太田)
目的の第一は、戦争の世界史的意義を闡明して、当時日本に跋扈していた平和論者の反省を求めるためでありました。
⇒これだけとれば正論なのですが、大川は、学者として出発した者としてあるまじきことに、当時、日米双方において流行していた、日米戦争必至論(注1)を批判的に見ることなく、徒にその流れに掉さした、という点で甚だ問題があります。
(注1)まず、日本に関しては、「大正7年(1918年)に<は、既に、[1915年1月18日に]>日本政府による「対[華]2[1]ヵ条」要求の問題が尾をひいて、さかんに日米戦争必至論が論議せられつつあ<った。>」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/americanreview1967/1967/1/1967_1_v/_pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82 ([]内)
(ちなみに、「<米国>は・・・、<上記要求に関し、1915年>5月6日、ブライアン国務長官<が>英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議して、三国当局から拒絶されると、5月13日、中国の領土保全、門戸開放の原則、および中国における<米国>や<米国>人の権利と抵触する条約・協定・了解はすべて、<米国>として承認しない、と通告し<た。>」(上掲)ところだ。)
他方、米国に関しては、「たとえば1925年、・・・デューイは・・・「早晩日米戦争を予言する悪質プロパガンダが、驚くほど大量に流されているが、・・・<米国>の対日世論を悪化させるであろう。」<と記している。>・・・<そもそも、>日露戦争以来、<米国>の海軍将官たちは、日米戦必至論を固持してきたが、彼らの「オレンジ作戦計画」では、日本こそ第一の「仮想敵国」と想定されていた。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1967/34/1967_34_36/_pdf(38~39頁)
大川が、本当に横井小楠に私淑していたのだとすれば、露・・当時は赤露・・との戦争必至論に立脚しつつ、その立場にどうやって米国を同調させるか、或いは、少なくとも妨害させないか、を論じるべきところ、ロシアならぬ米国を主敵と断じたのですから、何をかいわんやです。
結局のところ、大川は、勉強が不足していたために、横井のような、ロシアと英米とを区別し、前者に警戒心を抱き、後者に親近感を抱く(コラム#省略)ことができるだけの見識を、そしてまた、デューイのような健全な常識を、身に着けることができなかった、ということでしょうね。(太田)
目的の第二は、言葉の真筒の意味における世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示すためでもありました。・・・
世界史は・・・東洋と西洋<の>・・・両者が相結ばねばらぬことを明示している。さりながらこの結合は、おそらく平和の間に行われることはあるまい。・・・
この論理は、果然米国の日本に対する挑戦として現れた。亜細亜における唯一の強国は日本であり、欧羅巴を代表する最強国は米国である。・・・この両国は、ギリシャとペルシア、ローマとカルタゴが戦わねばならなかったごとく、相戦わねばならぬ運命にある。・・・
⇒世界に主要文明が二つしかなく、かつ、日本がその一方のアジア文明に属する、という大川の考え方は、彼が、諸世界宗教・・諸世界文明と言い換えてもよい・・の研究者として出発したことに鑑みれば、そのお粗末さは度し難い、と言わざるをえません。
職業軍人であって、あくまでも余技的に文明論に踏み込んだ石原莞爾でさえ、それより15年後の著作ではあるけれど、『世界最終戦論』の中で、「世界は<欧州>、ソ・・・連・・・、東亜、南北アメリカの連合国家へと発展<する>」という趣旨のことを述べ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%88%A6%E8%AB%96
4つの主要文明が存在すると考えていたと思われる点で優れています。(注2)(太田)
(注2)肝心の「世界最終戦」が日米間ではなく、米ソ間で、しかも、熱戦ではなく、冷戦で戦われ、更にまたそれに米国が勝利を収めた、という点でこそ、石原の予想はあたらなかったものの、「ヨーロッパは大国が密集しているため、うまくまとまることができない。ソビエト連邦は全体主義でいかにも強そうに見えるが、ヨシフ・スターリンの死後は内部崩壊する。」(上掲)といった点では予想は概ね的中した。
これは、石原が、職業軍人として、軍事力とそれを支える経済力という、(ジョセフ・ナイ言うところの)ハードパワーの観点を基軸として、国際関係を見ていたからこそだろう。
惜しむらくは、石原にはソフトパワー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC
の観点がまだまだ不十分だったように思われる。
他方、大川は、そのどちらの観点も極めて不十分であった、と言えそうだ。
建国三千年、日本はただ外国より一切の文明を接取したるのみにて、未だかつて世界史に積極的に貢献するところなかった。この長き準備は、実に今日のためではなかったか。来るべき日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明けはじめねばならぬ。」(22~24)
⇒このくだりは、形の上では、石原莞爾の「東洋の王道と西洋の覇道のどちらが世界統一において原理となるのかを決定する戦争」の予想(上掲)と似通っていますが、石原のは、大川よりもはるかに長いスパンでの予想・・「最終」戦争に係る予想・・であった(上掲)点で異なります。(太田)
(続く)
『日米開戦の真実』を読む(その2)
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