太田述正コラム#7642(2015.5.3)
<『日米開戦の真実』を読む(その12)>(2015.8.18公開)
 「しかしながら、イギリスは決して、当初から印度の重要性を明らかに認識して、印度征服を企てたのではありません。イギリス人が初めて印度を目指して来たのは、簡単明瞭に金儲けのためであったのであります。・・・
 <さて、>イギリス<の東印度会社>は・・・香料群島・・から<オランダの東印度会社によって>逐われたので、心ならずも印度本土を活動の舞台とせねばならなくなったのでありますが、この事が他日かえってイギリスの幸いになろうとは、当時何人も夢想せぬところであったろうと思います。・・・
 1660年より1690年に至る30年間は、東印度会社の黄金時代で、毎年の平均配当率は2割5分強に達しております。・・・
 <ムガール皇帝の>アウラングゼブ<(注11)(コラム#1707)>・・・の失敗の最大原因は、<印度に雑多な宗教信徒がいたというのに、>回教徒としての彼の信仰が、余りに熱烈であったからであります。・・・
 (注11)「アウラングゼーブ(Aurangzeb。1618~1707年)は、「ムガル帝国の第6代君主(在位:1658年~1707年)。・・・第5代君主シャー・ジャハーンの三男。母は<>ムムターズ・マハル。・・・1657年、父シャー・ジャハーンが重病に陥ると、・・・皇位継承戦争<を>争い、1658年に帝位を継承した。その後、・・・父帝はアーグラ城へと幽閉した。・・・
 アウラングゼーブは若年から厳格なスンナ派の信者であり、ムガル帝国の宗教政策を変えて帝国をシャリーアで統治しようとしたが、・・・ラージプートなど異教徒の離反を招いた。特にデカン地方にヒンドゥーの復興を掲げたマラーターの指導者シヴァージーの抵抗には苦慮し、長く辛酸を舐めることとなった。・・・
 その死まで<に>帝国の領土は最大となったが、 その死を契機に帝国は衰退・崩壊した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
⇒大川が「英国のインド統治の過酷さを執拗に強調し続け」た部分を引用しても、既に記した理由から、殆んど意味がない以上、それらは基本的に端折ることにした一方、英国のインド統治史に係る部分については、復習も兼ねて、適宜、引用することにしました。
 さて、デリー・スルターン朝(1206~1526年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
から始まった、北インド亜大陸のイスラム勢力による支配は、バーブルが興したムガル帝国によって、全インド亜大陸支配寸前まで行ったというのに、その最終的場面で、アウラングゼーブが真正イスラム教的統治を行うに至ったために、これに反発する土着ヒンドゥー教勢力の頑強な武力抵抗に直面し、挫折したどころか、ムガル帝国の著しい弱体化を招いた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD
わけですが、これは、私のかねてよりの指摘であるところの、スンニ派イスラム教徒の真正化「法則」、及び、(凝集力に乏しいけれど、現世利益志向と)好戦性という特徴を有するヒンドゥー教、双方の有力な例証であると言えそうです。
 この、イスラム教とヒンドゥー教それぞれの「業」に由来するせめぎ合いが、英国にインド亜大陸支配という漁夫の利をもたらした、ということになるのではないでしょうか。(太田)
 
 <その結果>の混沌<に困った東>印度会社は・・・1686年に最初の印度遠征軍派遣を<し>ました<(注12)>が、<敗北を喫します。>・・・
 (注12)ここは、大川の勘違いか、大川が針小棒大に書いているかだが、1686年に「最初の印度遠征軍派遣」などはなかったと考えた方がよさそうだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company (←東インド会社の英語wiki)
 「特許植民会社制度研究」、恐らくは英蘭仏の東インド会社等の研究、で博士号を取得した大川の上手の手から水が漏れたと考えるより、大川の史実に関する記述の全てを疑ってかかった方がよい。
 このような時に当たり、形勢を一変してイギリスの地位を回復したのは、実に・・・<1757年のプラッシーの戦いをイギリス側勝利に導いた>当年32歳の陸軍中佐、ロバート・クライヴ<(注13)>・・・の機略と勇気とであります。・・・
 (注13)Robert Clive(1725~1774年)。「名門の家に生まれる。幼くして冒険を好み、学業成績は悪く学校を転々とした。1743年18歳で<英>東インド会社の最下級の書記として入社し、翌年マドラスに赴いた。この年、たまたまマドラスがフランス軍に占領され、捕虜となるが、脱出に成功、1747年英軍将校に任命される。軍人としてインドの覇権をめざす<仏>東インド会社と戦い、1751年にはマドラス西方の仏軍要塞アルコットを占領した。1753年帰国すると英雄として迎えられた。
 1756年セント・デーヴィッド要塞知事として再びインドに赴くが、この年フランスと同盟したベンガル太守がカルカッタを奪取したため、1757年クライブは600人のイギリス兵、800人のセポイ(インド人雇用兵)、500人の水兵を率いて34,000のベンガル太守軍をプラッシーの戦いで破った。この勝利によってベンガルにおける<英国>の覇権が確立する。1760年再び帰国して下院議員の席を買い、1764年にはナイトに叙爵された。
 1765年にはベンガル知事として再びインドに赴き、ムガル帝国皇帝から<英国>のベンガル支配を公認する勅書を受ける。これによって英領インドの基礎は完成した。1767年帰国すると、インドで私腹を肥やしたとして議会で弾劾を受け、1773年ようやく無罪の決定を受けるが、相当な屈辱を受けた。健康が悪化したうえ、アヘン中毒にかかり、1774年にロンドンの自宅・・・で自殺した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4
 「プラッシーの戦い(・・・Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村プラッシーにおいて、 <英>東インド会社の軍とベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)と後援する<仏>東インド会社の連合軍との間で行われた戦い。この戦いは七年戦争とも関係し、<英仏>間の植民地を巡る戦いの1つでもあった。・・・<なお、内通者がいたため、>実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 クライヴ<は、ムガル帝国皇帝から東印度会社に委嘱されたところの、>ベンガル総督兼軍司令官として、<1765年に>印度に来て、在職1年半の間にベンガル、オリッサ、ビハール3<州>–実にフランスよりも大きい地域を事実上、イギリスの領土としたのであります。<(注14)>」(222、227~228、230、239~240、243~244、249)
 (注14)「1765年8月に結ばれたアラーハーバード条約で<英>東インド会社はムガル帝国からベンガル、オリッサ、ビハール3州での租税徴収権(ディーワーニー)を獲得、これを次第に拡大していった。ムガル皇帝とベンガル太守は単なる年金受領者になり、インドは<英国>の植民地となっていった。」(上掲)
⇒名門に生まれ、学業成績が悪く、軍事的冒険を求めて外国で活躍し、栄爵を極めた、という点で、クライヴとチャーチルはよく似ています。
 違いは、前者が大英帝国建設の礎を築いたのに対し後者が大英帝国を過早に瓦解させたことと、にもかかわらず、前者は悲惨な最期を迎えたのに対し後者は栄光の最期を迎えたことです。(太田)