太田述正コラム#7644(2015.5.4)
<『日米開戦の真実』を読む(その13)>(2015.8.19公開)
「<英東印度>会社の印度統治<に対して、>・・・諸所に叛乱の勃発を見るに至りましたが、・・・その都度これを鎮圧して領土を広めていきました。ただし連年の戦争のために莫大なる戦費を必要としたので、・・・会社の財政は次第に困難に陥<ったこともあり、>・・・ウィリアム・ピットの内閣において、・・・いわゆるピットの印度法が制定され、・・・<この>政府と会社とが相並んで印度に臨んだ時代・・・「二重統治」の時代・・・にイギリス<は>印度に対する積極的侵略を断行し<ます。>・・・
<ところが、>1857年、・・・印度土人軍隊が起って叛乱を起こしました。・・・半年の後に徹底的に弾圧されてしまいま<すが、>・・・翌1858年の「印度統治法」により、印度統治の大権はすべてイギリス国王の手に移り、1873年、東印度会社は解散し、次いで1876年、イギリス女王ヴィクトリアが印度皇帝の位につき、ここに印度帝国の建設を終わったのであります。」(249~251)
⇒大川は、英国が「印度に対する積極的侵略を断行」したと言っていながら、その具体的な説明を全く行っていません。
これは、典拠として引用すべき資料を彼が全く持ち合わせていなかったからに相違ありますまい。
逆に言えば、それは、単に、二重統治より前の、「諸所に<おける>叛乱の勃発<を>・・・その都度・・・鎮圧して領土を広めてい<く>」ことが、二重統治の開始以降も続いただけであったことを推認させるものです。
私に言わせれば、インド亜大陸においてのみならず、世界のどこでも、基本的に、英国は、商業的利益を追求しただけであって、それに対して武力で抵抗を受けた場合に限り、受動的に武力を対抗行使して撃破し、その結果として、英国の領域的支配圏が拡大していった、ということなのです。(太田)
「イギリスは印度教徒と回教徒とを反目させ、藩王と藩王を敵対させ、・・・戦わしめ・・・争わしめたのであります。・・・
⇒これぞ、私が前から申し上げているところの、省力化統治ってやつであり、それに乗ぜられた側が無能、無力であったというだけのことです。(太田)
印度諸藩王の政治はもとより善政ではありませんでしたが、それでもなお東印度会社の統治より<は>優ってい<まし>た・・・
⇒こういった類の指摘を、大川は、同時代の著名英国人等の論述がある場合は、鬼の首を取ったように、それを引用しながら行うのですが、英国人等に限らず、誰であれ、何かを政治的に訴えたい場合には、都合のよい事実だけをつまみ食いして論じることが少なくないのであって、大川が、これら、同時代の著名英国人等の論述中、最も自分にとって都合のよいものだけを更につまみ食いして、英国統治の暴虐さをプレイアップしようとした、ということです。
しかし、マクロ的事実を垂直的・水平的に参照するよう心掛ける、という程度の平衡感覚さえ持ち合わせておれば、既にお示ししたように、大川や、大川が引用する著名英国人等の、ためにする偏頗な議論を論駁するのはそう困難なことではないのです。(太田)
1857年の印度兵叛乱・・・中、並びに叛乱鎮定後におけるイギリス人の残忍酷薄は、世間の人が多く知らないところで、しかも彼らの印度に対する態度を最も赤裸々に暴露したものであります・・・。・・・
⇒現地住民でもって編成した治安部隊の叛乱に対しては、とりわけ「残忍酷薄」に対処するのは、宗主側としては当然なのであって、そうしない限り、類似の叛乱の再発防止ができないどころか、いつ寝首を掻かれて虐殺されるかという恐怖に苛まれ続けることになりかねません。
なお、現代の軍隊でも、叛乱は、そもそも、厳しく処断されるものです。
戦前の日本の陸海軍の反乱罪への処断について、下掲参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B9%B1%E7%BD%AA (太田)
イギリスは、数々の法律条例によって、印度在来の農業制度を根底から破壊し去りました。そのために印度社会の経済的障壁であった村落共同体は亡び去り、農村はイギリス資本の支配の諸条件に都合いいように改革されましたので、印度農村は目も当てられぬ悲惨な状態に陥りました。・・・
印度の手工業もまた壊滅しました。・・・昔から世界最大の綿製品生産国であった印度に、イギリス製の綿糸綿布が氾濫するようになって、極めて多数の印度人は路頭に迷ってしまいました。」(259~161、264~266)
⇒英国の法律・・我々が近代法と称するもの・・をインド亜大陸の英国直轄地等に適用した結果、これら地域が英本国と直結し、前近代的な農業や工業が消滅して行った、つまりは、インド亜大陸の英国直轄地等が近代化した、というだけのことです。
そのおかげで、インド亜大陸は、ムガル帝国時代に比べて相対的に繁栄することとなり、衛生医療の改善もあって、人口が激増したわけです。(太田)
(続く)
『日米開戦の真実』を読む(その13)
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