太田述正コラム#7646(2015.5.5)
<『日米開戦の真実』を読む(その14)>(2015.8.20公開)
「印度文化全体が釈尊または仏教を通じて我が国に伝えられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によってに非ず、生活体験によって日本人の魂に浸み込んだのであります。・・・
日本と印度との間のこうした関係は、支那との場合においても同然であります。我々は支那文明の精華と申すべき孔孟の教えを支那から学んだのであります。・・・
<そして、>印度がそうであるように、支那もまた我が身我が心の一部となったのであります。
⇒儒教に比べれば、より日本に大きな影響を与えた仏教すら、「日本の魂に浸み込」むことはなかった、というか、論理的に「浸み込」みえなかったことは、既に、前回のオフ会「講演」(コラム#7625)で私が指摘したところです。
大川の仏教や儒教に対する理解がいかに浅薄なものであったかが分かりますが、それもこれも、彼が自国である日本のことが皆目分かっておらず、日本のあらゆるものがインドと支那の借り物であるとする自己卑下的な日本観を抱いていたことに起因しています。
大川は、日本文明の存在を信じ、中にはその近代超克性という意味での普遍性を唱えた者達さえいたところの、同時代の京都学派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E6%B4%BE
とは比べようもないほどお粗末な人物であったというべきでしょう。(太田)
その上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼らの血が日本人の血に混じっております。中国の大大名であった大内氏<(注15)>も、薩摩の島津家<(注16)>も、遠くその祖先をただせば、朝鮮を経て日本に渡って来た支那人だと言われ、・・・純然たる日本文学と考えられている紫式部の源氏物語でさえ、その思想も、その文学としての結構も明らかに漢学漢文から脱化したものであります。<(注17)」(291~293)
(注15)「大内氏<は、>・・・百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた<が、>・・・代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
「百済<の>・・・民族については、・・・ツングース系夫余族の国家だったとする説と、ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
(注16)「島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
秦氏は、百済から帰化したとされているが、秦人の朝鮮半島移民説、百済人説、「チベット系民族であって・・・中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦<人>」とする説、等がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
(注17)「『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたい」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
⇒浅学非才ぶり丸出しの大川の牽強付会、の一言で終わりです。
そんなに血の繋がりを訴えたかったのなら、大川は、南支那から渡来した弥生人に言及すべきでした。(太田)
「この支那が、国民の身と心を蝕み尽くす阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといって武力を用いたのが、実にイギリスであります。」(295)
⇒19世紀央に、既に現在の米国に匹敵する人口を有していたと考えられる清(支那)において、ドラッグ禍を克服しようとするのであれば、現在の米国のように、「国内には12支部と237ヶ所の現場事務所を持ち、58ヶ国に80ヶ所の国外事務所を有して・・・20億ドル強の予算を用いて、5000人強の特別捜査官を含む11000人強の職員を雇用している」ところの、米麻薬取締局(Drug Enforcement Administration)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E8%96%AC%E5%8F%96%E7%B7%A0%E5%B1%80
規模の取り組みをしなければならなかったというのに、清当局が、1839年に、短兵急、かつ安易に、「広東<において、>・・・イギリス商人が持っている阿片を全て没収し、処分した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%89%87%E5%BE%90
ことが、英国に付け入るスキを与えたのです。
もとより、これは、担当官であった、林則徐(1785~1850年)の罪ではなく、それから余り年月をおかず、1851~64年に太平天国の乱が起こった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
ことが象徴しているように、清の統治が既に劣化し腐敗していたことが、そもそも、ドラッグ禍の蔓延をもたらすとともに、それへの対処を困難にしていた、と言わなければなりません。
さて、林則徐がスゴイのは、後に、一時、新疆をも所管する陝西巡撫に「左遷された<際に>、・・・この場所で南下するロシア帝国の脅威を実見<し、>、・・・「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」」と警告していることです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%89%87%E5%BE%90 前掲
あれだけ非道なことをやらかし、しかも、自分に大変な屈辱と蹉跌を与えたところの、にっくき英国よりも、林はロシアの方をより大きな脅威である、と正しく捉えたわけです。
幸いなことに、日本では、横井小楠を嚆矢とする、幕末以降の日本の指導者達は、林則徐と同じ見方をし、対露抑止を対外戦略の肝としたのに対し、支那では、英国、後には、あろうことか日本、を最大の脅威、ロシア/赤露をむしろ味方、と見るところの、倒錯的にして誤った対外戦略を踏襲し続けることになるのです。(太田)
(続く)
『日米開戦の真実』を読む(その14)
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