太田述正コラム#7654(2015.5.9)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その2)>(2015.8.24公開)
 「唐で武人の勢力の盛んになったというのは、所謂藩鎮の制度の結果である。すなわち各地方に置いたところの節度使が、内乱に依って段々勢力を占めて来て、そうしてそれがとうとう官職を世襲する傾きを生じて来たのに基因しておる。・・・
 <そして、節度使に、>もし、・・・子が無いと、その軍中で・・・人望のあった者が、その代わりに立てられるというようなことが起って来た。その際から幾らか親分子分の関係を生じて来てそしてそれがとうとう養子制度のようなものになって、ついに家族制を打ち壊す原(もと)になった。それで親分子分という者、支那で謂う義児とか乾児とかいうことがこの時分から生じたのであ<る。>・・・それが五代の頃になると、ついには天子にまでも、その習慣が応用されて来た。例えば、後唐の明宗<(注1)>という天子は夷狄の出身であるが、これは先代の李克用<(注2)>の養子になって、それがとうとう軍隊に推されて天子の位に即いた。
 (注1)李嗣源(867~933年。皇帝:926~933年)。「出自ははっきりしないが少なくとも漢民族ではなく、いわゆる「雑胡」で、父は代州にいた遊牧民族の一首長<であったため、皇帝になった時、>・・・異民族として漢民族に君臨することを悩<んだ>・・・といわれる。その謙虚さゆえに国内は安定して、明宗は五代の中でも屈指の名君とまで讃えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%97%A3%E6%BA%90
 (注2)856~908年。「突厥沙陀部出身。・・・唐末期に鴉軍と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げ、・・・唐<に>禅譲<させて>後梁<を>建て・・・た朱全忠と激しい権力争いを繰り広げたが、中途で病死した。独眼龍の異名を持つ猛将であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%8B%E7%94%A8
 「沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥<・・>8世紀半ば、ウイグルに滅ぼされ<た・・>の一部族。中原北部に定着して、次第に漢化していった。
 いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝の<最初の朱全忠の後梁以外の>後四王朝は、いずれも沙陀、あるいは沙陀の系譜を引く軍事勢力を中核として建てられ、その後全中華を統一した趙匡胤の宋朝すら、沙陀系軍閥の系譜を濃厚に継承している。・・・
 五代十国時代のうち華北の「五代」の抗争は、実際には沙陀系王朝とキタイ族の遼との間の連携・離反の繰り返しであったともいえる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%99%80%E6%97%8F
 「契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の王朝<である>遼<は>・・・916年から1125年まで続いた。建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されている・・・五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受け<たことから、>・・・最初の征服王朝と評価されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC
 いわば羅馬時代の皇帝のようなものである。・・・苟も天子というものが養子を以て相続をするということは、ほとんど昔から無いことであって、これは支那のような家族制度を尊ぶ国としては、非常な社会上の変化である。・・・
 もちろん支那のよな歴史の古い国というものは、世の中が泰平になると、また幾らかその形勢が後戻りをするということはあるわけである。・・・支那の家族制<についても、>このために全然失われたというではない・・・。」(31~33)
⇒たとえ学者であろうが、その専門分野においてすら、現在の我々よりもはるかにわずかな情報しか持ち合わせていなかった1世紀も前に書かれた本の粗探しばかりしているようで気が引けますが・・。
 内藤の上掲の最後の段落は、意味不明というか、語るに落ちたというか、それもこれも、五代十国時代を経て、唐の滅亡後、54年目の960年に宋を建国し、72年目の978年に統一を完成した趙匡胤が文治主義を打ち出し、科挙官僚を支配体制の中枢に据えるとともに、帝位承継を血統原理、すなわち「家族制」に回帰させた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
からでしょう。
 五代十国の後四王朝は、全て遊牧民族系であり、しかも、五代十国時代は、王朝が短期間で次々に変わり、あまつさえ、どの王朝も統一には成功せず、戦乱が打ち続く、という有事の時代でした。
 太田コラムを読んでこられた方々は先刻ご存知でしょうが、遊牧民族は有事において、血統を問わない能力主義で軍司令官たる首長を選出する、という伝統があります。
 しかし、その伝統は、遊牧民族が、漢人の地に何代もとどまり、漢人化していくにつれて薄れていくわけです。
 こういったことは、支那史において、その後も何度も起こります。
 従って、内藤の、五代十国時代が、支那史の大きな転換期であったという主張は、必ずしも正しくないのです。
 (なお、宋になって、「後漢から唐代まで支配層<であ>った権門貴族」に代わって、科挙官僚が支配層になったわけですが、「科挙は・・・、合格には長年勉学のみに集中できる環境が必要であり、また書物や入門の費用などもかかるため、合格者の多くは富裕階層出身である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D) 前掲
ことから、支配層の実態が大きく変わったわけではありません。)(太田)
(続く)