太田述正コラム#7664(2015.5.14)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その7)>(2015.8.29公開)
 「満州には・・・日清、日露戦争以後、日本並びにロシアの資本が入って来たのみならず、日露の鉄道でもって、土地の産物が海外に輸出するので、満州の富力を増したがために、・・・財政が発展をしたので、もしも日露の勢力を引き去ってしまうと、満州は依然として貧乏の土地に止まるのである。それゆえ単に支那の財政上から考えると、満州を切り離す方が利益で、今日の財政ではこれを持ってゆくだけの実力は無いのである。要するに今日の中華民国の成り立ちは、今袁世凱が政務を執っておるとはいいながら、南方の革命軍の興ったために今日の形勢を来したのであって、謂わば漢人の天下で、漢人が支配するのである。漢人の天下で漢人が支配するということになると、支那本部の財力でもって、支那を支配するということを根本の主義として立てて行かなければならぬのであって、支那の根本の財政に害こそあるけれども、利益にはならぬというような土地をば切り離してしまう方が、財政の理想上から云うと至当のことである。」(78~79)
⇒内藤のこのくだりには、日露協約(1907、1910、1912、1916年)の秘密協定で、「ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認め<るとともに、>日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84
ことが背景にある・・但し、内藤のこの本は1914年上梓・・わけですが、日露両国が、それぞれ、南満州、北満州を事実上内地扱いにして、対抗心に駆られて競って梃入れを行ったおかげで、満州が、支那本体に比べて経済発展をしたことから、仮に日露両国が、満州における特殊権益をそれぞれ放棄して、事実上の内地扱いを止めた途端、満州は、支那僻地の金食い虫の状態に戻ってしまうだろう、と内藤は言っているわけです。
 この内藤の論理の帰結は、彼自身が示唆しているように、満州の恒久的な支那本体からの切り離しであり、南満州、北満州それぞれの、日露への事実上の併合です。
 現実にはどうなったでしょうか。
 1917年のロシア革命後に成立したソ連(赤露)も、北満州での特殊権益を維持し、これを奪おうとする中国国民党政権との間で1929年7月~12月に中ソ紛争を起こし、特殊権益を死守した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E7%B4%9B%E4%BA%89
ところ、これを横目でにらんでいた日本(関東軍)は、1930年5月に朝鮮共産党が起こした間島共産党暴動(注8)や1930年8月に中国共産党が起こした八一吉敦暴動(注9)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
によって、いよいよ赤露に対する警戒心を高める一方、「中華民国蒋介石派<が>・・・急速に共産主義勢力に接近し、・・・日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめ」ていたことから、ロシア/赤露抑止最前線たる南満州の権益が脅かされ始めたことに焦燥感を強め、1931年9月、満州事変を起こし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
南満州の権益を安泰にした上で、1935年、傀儡の満州国をしてソ連の間で北満鉄道譲渡協定を調印させ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%BA%80%E9%89%84%E9%81%93%E8%AE%93%E6%B8%A1%E5%8D%94%E5%AE%9A
北満州におけるロシア権益を解消させるとともに、事実上、日本の対ロシア/赤露抑止最前線を、ソ満国境まで北上させることに成功したのです。(太田)
 (注8)「1930年5月30日、・・・豆満江を挟んで朝鮮半島の対岸に位置していた・・・間島の主要都市や鉄道沿線で一斉に蜂起し、日本領事館などの官公庁や鉄道施設・電灯会社などを襲撃した。続いて7月31日にも<間島よりも内陸部で>暴動が再燃、以後1年以上にわたって断続的な暴動が間島各地で繰り広げられた。大日本帝国の軍部・警察は直ちに間島に入って鎮圧を開始、奉天軍閥も鎮圧に動いた。その結果、日本側によって7,000名が検挙されて700名余りが起訴、うち・・・22名が治安維持法や刑法などによって死刑とされた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E6%9A%B4%E5%8B%95
 (注9)はちいちきっとんぼうどう。「<間島よりも内陸部で330人が>木橋二ヶ所を破壊し、電信線を切断し、掠奪を行ったとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%80%E5%90%89%E6%95%A6%E6%9A%B4%E5%8B%95
(続く)