太田述正コラム#7666(2015.5.15)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その8)>(2015.8.30公開)
「日本の明治維新の当時に、一方に樺太を喪うと同時に、また一方には征韓論が起り、台湾征伐をしたというような侵略的精神が、支那の人民の方からして起っておるべきはずということが、認められないこともない。」(79~80)
⇒「日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができ<、>・・・安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝<も、>「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる」ものの、それら諸論と1873年のいわゆる、私見によれば人間主義に立脚したところの、征韓論・・「武力をもって<でも>朝鮮を開国しようとする主張」とは区別しなければならない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96 (「」内)
というのに、内藤はそんな基本的なことも分かっていなかったように見受けられます。
また、1874年の「台湾出兵<は、>・・・1871年<に>・・・台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の処理を巡って・・・清政府・・・<と>対立した<ことから>、1874年・・・に明治政府が行った台湾への軍事出兵であ」って、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5 (「」内)
これも「侵略的精神」によるものでは必ずしもなかったわけですが、これについても内藤は全く無頓着です。
こういった、戦前の日本の識者達による不用意な言明・記述が、欧米諸国による、ためにする日本の侵略主義ないし軍国主義批判に口実を与えたのです。
もとより、その背景には、当時、日本の過去に関する情報量の、現在に比しての圧倒的不足があったわけですが、それだけではなく、そのこととも関連して、内藤に限らず、当時、私の言うところの第二次弥生モードの時代を生きていた日本の識者達が、第二次縄文モードから第二次弥生モードへの転換を、欧米の進歩史観を踏まえて、進歩と見ていたこと、更に言えば、当時、帝国主義的であったところの、(日本にとって模範たる、)欧米諸国の対外行動(侵略)に準えて日本の対外行動を「解釈」しようとしたことがあった、と私は思うのです。(太田)
「日本が実行している植民政策はヨーロッパ諸国などとは頗る同じからざる点があって、資本が有り剰るがために、その下し場所を求めるので植民地が要るとか、またヨーロッパのある国からアメリカなどへ盛んに移民の行くごとく、人口の過多なるがために、それを捌く必要上から植民地が要るとか、工業が盛んで生産品が過剰を来すがために、植民地が要るとかいうのとは幾らか違っておる。もちろんそのうち人口の過多を捌く方法としては、日本にも同様の理由があるのであるけれども、台湾などに対しては、その割に多数の日本人が入り込んではおらぬ。日本の現今の植民地に対する実状は、教育を受けた人間が有り剰って、それを使用するに困る場合が多いので、多くの官吏を製造して、それを植民地に捌いてやるという、方針というのではないけれども、確かにそういう傾向になっておると言い得るのである。これは植民地を見事に治めるがために多数の官吏を要求するのではなくして、官吏になる人が多数なので、植民地にも多くの官吏を用いるのやむを得ざるに至っておるのである。台湾の治績が清朝の時より挙っておるとか、朝鮮の土人が韓国時代よりも経済上幸福になっておるとかいうのも事実ではあるけれども、これは他に理由があるので、官吏の多数なる結果ではない、現に日本においてもしばしば冗官の淘汰が問題になって、一つは財政の上からも来るのであるが、とにかく官吏が多きに過ぐるということが問題になっておる。それでこれを外国の行政の整頓した国々に較べると、官吏の才能が不十分にして、そうして数ばかり多くする行政の仕方を日本は執っておるのである。」(92~93)
⇒最後の箇所についての私の想像は、江戸時代までの省力化統治・・エージェンシー関係の重層構造による統治、ないし、被治者参加型統治・・を、明治維新以降、欧米的なフォーマルな統治、公と私を峻別した統治、の体裁を整えなければならなくなったことで、対人口比の官吏の数が増大したことが、内藤の言の背景にあるのであろう、というものです。
具体的な数を持ち合わせていませんが、それでも、当時、欧米諸国と比較すれば、日本の人口比官吏数は少なかったはずです。
さて、内藤が、「日本が実行している植民政策は・・・<欧米諸国のそれとは>幾らか違っておる。」と言いながら、その具体的な説明を行っていないのは困ったものです。
何度も申し上げてきたように、私見では、それは、対露安全保障目的の人間主義的なものであったことから、欧米諸国のそれとは、「頗る同じからざる点があ」り、だからこそ、「台湾の治績が清朝の時より挙っておるとか、朝鮮の土人が韓国時代よりも経済上幸福になっておるとかいう」、欧米諸国のそれと比較して原住民の福祉面での顕著な進展が見られたわけなのです。(太田)
「<支那では、>一種の官吏の下働きをする職業、すなわち胥吏というようなものがあって、実際の政務を執っておることは、<中央政務から地方政務>まで共通しておるので、この胥吏がまた代々世襲しており、またその下部をも売買して、動かすべからざるほどに盤踞しておるので、顧炎武<(注10)(コラム#6200)>は古人の言を引いて、官に封建なくして、吏に封建ありといい、黄宗義<(注11)>も同様のことを言っておる。この胥吏を廃して、士人を用いると言う宿論を実行しようとは、清朝の末年からしてすでに試みたのであるが、要するにこれは官吏が実際政務を知らぬでも、盲判を押せばそれで務まるという習慣が全く改まらない以上、恐らく実効のないことと思う。」(95)
(注10)1613~82年。「明の滅亡に際して反清運動に参加した。経学や歴史学の研究の傍ら経世致用の実学を説き、考証学<の>・・・祖<の一人>とされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6
「考証学<は、>・・・厳格な考証を行った。以後、経学・史学の研究が隆盛となった。また、康熙・雍正・乾隆三代の学問奨励策とあい符合して、・・・乾隆・嘉慶年間(1736年~1820年)に全盛となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E8%A8%BC%E5%AD%A6
(注11)1610~95年。「明の滅亡に際して反清運動に参加<し、>・・・1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している・・・陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖<の一人>と称された。・・・清末になって、・・・黄宗羲は「中国のルソー」と称されるようになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%AE%97%E7%BE%B2
⇒官(官吏)に倣って吏(胥吏)にも科挙を、というのはそれなりに正論なのであって、それと、科挙の内容をより実務に即したものにする、ということとは、次元が違う問題なのに、内藤はおかしなケチの付け方をしたものです。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その8)
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