太田述正コラム#7668(2015.5.16)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その9)>(2015.8.31公開)
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[江戸時代と現在の「官吏」の対人口比]
「明治維新直後・・・<の>データ<では、>・・・士農工商の士、すなわち華士族・卒を含めた支配階級が6.4%、神官と僧が1.2%」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7860.html
であったところ、(僧は戸籍業務を行っていたけれど、含めないとして、)江戸時代においては、「官吏」の対人口比は単純計算で6.4%であった、ということになる。
他方、現在では、日本の官吏数の対人口比は、主要国では最低の、3%に過ぎない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1
戦前の官吏の数の(対人口比)データがネット上でにわかには得られなかったのには驚くと同時に落胆したが、現在よりは、軍人の数だけを考えても多かったと想像される。
それにしても、江戸時代は官吏の数が現在よりも多かった思われる方もおられようが、江戸勤番武士の場合、「勤務日数<は、>・・・月10日前後で・・・勤務時間は、午前中の3~4時間だったという」
http://www.bs-tbs.co.jp/edo/backnumber/12.html
事例から推して、現在の官吏と比較して、勤務日数が(祝日を勘案すれば)約2分の1強、勤務時間が約2分の1弱なので、現在の官吏ベースに換算すれば、1人4分の1人前の勤務しかしておらず、対人口比で実質1.6%に過ぎなかったことになるのを忘れてはなるまい。
(しかも、明治維新直後(江戸時代)の数字には、高齢者や女性や子供も含まれているはずだから、実数的には、その半数未満、恐らくは0.5%程度に過ぎなかったとさえ考えられる。)
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「実は明治時代の官吏は、徳川時代に比して遥かに徳義が上進しておった・・・。つまり言論が自由になった結果、不徳の事があるとそれを遠慮なく摘発するので、自然表面に現れるところの悪事の数が多く見えるのであるが、徳川時代においては悪事の摘発の機関が無いところからして、すべてのことが皆泣き寝入りになっておったのである。・・・実は武士道というものは、単に徳川時代の理想であって、講釈師などの談を聞けば時々えらい人があるようであるが、事実行われておったことは極めて稀であって、一般には腐敗を極めておった。ただ徳川の末年に国歩が艱難を来してから、始めて人心が奮起して、今まで細身の大小を帯していたものが、講武所風とかいう太いものを帯して歩くといったようになったので、それが明治になって外国ととの関係上、いずれの階級にも愛国心が普及することになった。今の人が謂う元禄武士とかいう、その元禄時代には、どちらかといえば武士道の衰えておる時で、赤穂四十七士などの盛んに称揚されるのも、その腐敗した世の中にあれだけの人間が幸いにもあったということが珍しかったので、その外の世間は腐敗を極めておったのに対照しての賞讃と見る方が事実である。」(96)
⇒ここは、或いは、内藤は、「腐敗を極めておった」らしい、田沼時代のことが念頭にあったのかもしれません。
しかし、「松平定信一派の厳しい田沼批判の結果、近代では「田沼意次=賄賂政治家」という説が通説であったが、」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%99%82%E4%BB%A3
「大石慎三郎<(注12)>らは「賄賂政治家」という悪評は<松平定信ら>反対派によって政治的に作られていったとしている。これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたもので<ある>・・・としている。・・・
また贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている。なお、田沼の没後松平定信によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1
というわけで、少なくとも、明治維新以降よりも江戸時代の方が腐敗していた、ということはなさそうです。
(注12)1923~2004年。東大文卒、同大博士。長く学習院大教授。「・・・近世農村史の研究から歴史研究に入り、その後享保の改革を生涯の研究テーマとした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E6%85%8E%E4%B8%89%E9%83%8E
この本が上梓された当時の「通説」に内藤が拠ったのは、何度も申し上げているように、彼が、支那に関しても進歩史観を信奉しており、同史観に基づいて支那の(当時の)現状を批評するにあたって、この「通説」が、日本自身も当然進歩してきた、という彼の思いこみに資する「説」であっただけに、理解できる部分もありますが・・。
(蛇足ながら、田沼が、金品を含む贈答品を受け取っていたことは事実ですが、それは、彼に限ったことではなく、互酬性に基づく日本の贈答文化
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110805/1312470079
に加えて、(私の言うところの日本型政治経済体制の特徴の一つたる)公私の非分離、の表れに過ぎません。)
なお、元禄時代が腐敗していた、との内藤の指摘にも首を傾げざるをえません。
松の間の刃傷事件の原因の一つが、吉良上野介が浅野内匠頭に多額の賄賂を要求したことであるとの俗説が、或いは、彼の念頭にあったのかもしれませんが、そうだとすると、「そもそも当時の武家社会では賄賂自体が卑しまれている類のものではなく、庶民や後世の視点で見て不正なものである賄賂と、後世の視点で見ても正当なものである授業料が混同されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
という、まさに「混同」を内藤がしていた、ということになりそうです。(太田)
「支那<では、>・・・塩商などのような、半官半民の関係をもっておる者の外は、いかなる商人でも、官吏をするほど大きな財産を作るということは出来ないのである。況や農民などにおいては、あれだけの大きな国であって、土地の肥沃平衍(へいえん)なることも非常なもので、幾らでも兼併をすることが出来るような状況にありながら、日本の農民ほども大きな財産を持ったものが無いのである。・・・
日本の封建時代の武士と違うは、ただ世襲でないというだけであって、その一代は貴族生活を送り、あるいはその子孫も余沢を蒙る点においては、日本の上級の士族以上の地位を皆もっておると云ってもよい。・・・
ところが<明治維新後の日本とは違って、>支那においては、・・・この度の革命に依って袁世凱の政府に官吏となった者が、やはり依然として清朝時代の官吏と同等に、官吏となれば貴族的生活を送られるものという考えが少しも払い去られないのである。」(100~101)
⇒江戸時代の武士が、上級、下級を問わず、いかに質素な生活をしていたかは、既に、累次(コラム#7375、7389)、読者が下掲↓を引用して指摘しているところです。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20121001/1349098468
ここでも(彼が、支那では、胥吏のみならず、官吏も腐敗している、という認識に立っていることこそはっきりしたけれど、)、内藤は、日本も進歩して腐敗を克服したのだから、支那でも克服することが可能である、という、事実認識においても論理においてもおかしな議論を展開しているわけです。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その9)
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