太田述正コラム#7674(2015.5.19)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その12)>(2015.9.3公開)
「清朝の末年に謂わば清朝を亡ぼしたところの主義は、一つは利権回収論であり、一つは中央集権論である。利権回収論が盛んになってから、その実力をも計らず、また適当な経営の法をも講せずして、鉄道、鉱山、その他すべての権利を自分の国に回収し、それについては外国の感情をも害し、困難な関係を生じても、体面を維持しようという考えであった。・・・しかし・・・支那のような現在財政の窮迫を感じており、領土を防護する兵力も無し、また経営の人材も乏しい際において、外国との交渉を滋くしても手を拡げるというのは、最も危い途であったのである。
⇒引用しませんでしたが、内藤は、日本が自分に押し付けられた不平等条約を一挙に廃絶しようとはしなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3
ことを引いて論述を進めており、このくだりは、全面的に首肯できます。(太田)
それで今日この外交問題、殊に領土問題などに、袁世凱の政府・・・が幾らか冷淡に傾いて来ておるというのは、むしろ進歩と云ってもよい。・・・
<しかし、同政府は、なお、中央集権>政策を執ってお<るところ、それ>は、甚だ危険でありかつ愚なることと考える。・・・
⇒内藤は、支那は連邦制を採用すべきだとしているところ、改めてそれをここで強調しているわけです。(太田)
とうてい自治的行政に依って成り立つことが出来ないほど国民の政治徳義が敗壊されておるものであるなれば、支那はとうてい共和政治でも立憲政治でも、今日世界の最良の政治として認められておるところの民主的政治を実行するに適しない。さらに進んで言うと、今日の文明国と同一な政治をしてはその国が治まらない。・・・結局この自治的政治が出来るか否かということは、極端に言えば支那が存立し得るか得ないかという問題にも関連するのである。」(141~142、145)
⇒内藤は、当時の支那では、自由民主主義は不可能だ、と言っているわけであり、彼の進歩史観と折り合いを付けるのなら、こうすれば、自由民主主義への展望が開ける、と説くべきであるのに、説いていないのは無責任の誹りを免れません。
それから1世紀も経った現在、中共当局が、なお、それが不可能である、と見ている以上、その限りにおいて、内藤には大変な先見の明があったことになりますが、内藤と違って、中共当局は、人民の人間主義化、つまりは、日本文明の継受、によって初めてそれが可能になる、と考えているらしい、というのが私見であることはご承知の通りです。
(厳密に言うと、中共当局が目指しているのは、人間主義化による自由民主主義の実現ではなく、人間主義化による自由民主主義的であるところの、日本型政治体制の実現、ですが・・。)(太田)
「<他方、一旦行政と司法とを分けたのに、>支那の民度がまだ行政司法を分けるまでに至らないからといって・・・、軽々しくその主義を変更するは、政治上無定見を示すものである。一体行政官が司法官を兼ねるのが、すなわち支那の長い間の民政上の弊害が伏在した所以で、朝鮮においても、郡守という行政官が司法権を握っており、それから警察と云うか、兵力と云うようなものまでも握っておったので、小さい天子のような形になり、日本で云えば昔の大名と同じような権力をもっておったので、人民は為に一日も寧処する[安んずる]ことが出来ぬような弊害を来たしたのである。」(148~149)
⇒内藤が、イギリスでは、立法権と行政権と司法権が分離していない(コラム#省略)ことを知らなかったことまでは咎められないものの、(警察権を含む)行政権と司法権が分離していなくても、江戸時代に上杉鷹山<(注14)(コラム#52、2674、7073)>という、ケネディ大統領も知っていたところの、人間主義的名大名がいたこと
http://www.ibaraki-ct.ac.jp/lib/internal/tayori/2006/09.pdf
も、また、板倉勝重や大岡越前守といった人間主義的名町奉行がいた(コラム#7073等)ことも、内藤は忘れていたようです。(太田)
(注14)上杉治憲(1751~1822年。藩主:1767~85年)。「日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、母は筑前秋月藩主・黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩第4代藩主・上杉綱憲[(吉良上野介の子)]の娘である。このことが縁で、10歳で米沢藩の第8代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。」藩政改革、伝国の辞、様々な逸話で有名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE ([]内)
「<ただし、>日本の政治家でも・・・一時の不便困難のために、しばしば国是遂行の信念の衰えることが無いこともなかったので、明治の初年でも既に政府はまず内治を専らにするということに国是を一定しておりながら、しかも・・・木戸孝允<等の反対を押し切って、>・・・台湾の生蕃の征伐をも卒然として行い、それから琉球事件に依って支那と衝突を起したりするようなことがあった。」(158)
⇒内藤は、よほど台湾出兵がお気に召さない模様ですが、彼が進歩史観の信奉者なのであれば、むしろ、国際法に則って、非の打ちどころのない対応を行った、当時の日本政府を称賛すべきだというのに、まことにもって異なことを聞かされるものです。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その12)
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