太田述正コラム#7730(2015.6.16)
<欧米における暴力観の変化(その1)>(2015.10.1公開)
1 始めに
人間が暴力的になったのは、農業社会の到来以降である、と私が見ていることはご承知の通りであり、この点についても、議論の余地があるところ、近代以降、暴力が減少傾向にあるのかどうか、という議論もまた活発に行われています。
この後者の議論に新たな一石を投じた、リチャード・ベッセル(Richard Bessel)の『暴力–近代の強迫観念(Violence: A Modern Obsession)』が上梓されたので、 まだ、書評には2篇しか遭遇していませんが、それらをもとに表記に迫ろう、と思います。
A:http://www.theguardian.com/books/2015/may/31/violence-modern-obsession-review-west-renounced-savagery
(6月1日アクセス。書評)
B:http://indianexpress.com/article/lifestyle/books/for-better-or-for-worse/
(6月8日アクセス。書評)
なお、ベッセルは、1948年生まれの英アンチオック(Antioch)単科大学卒、サザンプトン大学フェローを経て、オックスフォード大で博士号を取得し、現在ヨーク大教授、ナチスドイツ史専攻、
https://www.frias.uni-freiburg.de/de/das-institut/archiv-frias/school-of-history/fellows/bessel
という人物です。
2 欧米における暴力観の変化
「欧米では、我々はより非暴力的になった、とベッセルは主張する。
コンピューター・ゲームや映画の形での現在の娯楽は暴力だらけだが、それと並行したところの、儀式化された大量殺害への参加についての熱意、は存在しない、と。
我々の諸感受性(sennsibilities)の転機になったのは。ベトナム戦争だった、と。
ベッセルは、暴力の心理的トラウマが初めて公的議論に登場し、人が殺人に愉楽を覚えることに疑問が呈されるようになった、と述べる。
1968年3月のベトコン管理下にあったミライ(My Lai)村での守るすべのない女子供の米軍による虐殺<(注1)>は、(ニーチェの言葉であるところの、)「残酷さの祭典(festival of cruelty)」を終わらせよ、との人々の発声を促した。・・・
(注1)「1968年3月16日に、南ベトナムに展開する<米>陸軍・・・第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)の、“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ<ている。)>・・・軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。・・・虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%9F%E6%9D%91%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒本ソンミ村虐殺事件は、ゲリラと戦う正規軍にはありがちな、ゲリラ根拠地の一般住民への「蛮行」なのであり、ベトナム戦争全体からすれば、文字通り、同種事件群の氷山の一角であるはずです。
むしろ、日本に対する原爆投下の方が、軍事的合理性が殆んどなかった以上、比較にならないくらい深刻な蛮行でした。(太田)
我々の、暴力を報告し、犠牲者達の気持ちを忖度する(empathise)意欲が、欧米において、目覚ましい変化を遂げ<、高まっ>た。・・・
<例えば、>規律の暴力による押し付けは、今日の欧米の学校で見つけることは、およそ困難だろう。・・・
<また、>我々の諸感受性の遷移を指し示すのに、死刑<が廃止されたこと>よりもぴったりなものは殆んどない、とベッセルは述べる。
<ちなみに、>公開の絞首刑がイギリスで行われたのは1868年が最後だ。」(A)
⇒英国で、国による、犯罪予防のための殺害やテロリストの司法手続きなしでの殺害が依然認められている以上、死刑だけが廃止されたことの意味は殆んどありませんし、そもそも、国が、戦争において敵兵やコラテラルダメージとして一般住民を殺害することを依然認められていることだけからしても、こんな指摘はナンセンスです。(太田)
(続く)
欧米における暴力観の変化(その1)
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