太田述正コラム#7734(2015.6.18)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その18)>(2015.10.3公開)
–新支那論(1924.7.5)–
「日本と支那の関係はいつ再び困難に陥るかも知れぬと考えられ、あるいはまたどうしても一度は破裂すべき余儀なき径路に向かっておるように考えた方がよいのではないかと思う。」(260
⇒いかなる根拠に基づいてそう言ったのかはさておき、この予言が的中しただけでも、内藤の慧眼を認めざるをえません。
もとより、満州事変が起こったのは、それから7年後、(第二次)日支戦争が起こったのは、13年後であり、それほど先のことではなかったわけですが・・。(太田)
「<顧みれば、>同治中興<(注24)><のおかげで、>・・・ともかく洋式の鉄砲を持った兵隊が出来たという効能で、<太平天国の乱後の>国内の安全は得られたのである。
(注24)「<支那>で、同治年間(1862~1874)に行われた政治改革。表面的には、太平天国の乱も平定され内治・外交とも小康状態を保った時期で、・・・漢人官僚による洋務運動が推進され、清朝は一時的に安定した。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/156373/m0u/
洋務運動(コラム#4902、5368、5537、5539、5541、5811、6198、7017)は、「清朝末期(1860年代前半 – 1890年代前半)、<欧米>近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。・・・「洋務」という語は、この運動が元来は海防を任務とする外国人に対する事務であったことに由来している。・・・スローガンは「中体西用」。つまり、伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明の利用を目指す。・・・<但し、>明治維新は封建制を否定して西欧の立憲君主制と同様の政治体制を目指したのに対し、洋務運動は封建制による清朝を頂点とした政治体制をそのまま維持しようとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%8B%E5%8B%99%E9%81%8B%E5%8B%95
然るにそれ以上改革の必要を感ずる識見を持たなかったのが、後の失敗の因であり、その上に支那を喰い物にしようという欧米の浪人等に甘やかされ、扇動されたのが祟って、日清戦争というような誤った政策をとるに至ったのである。・・・
⇒「欧米の浪人等」を「欧米の宣教師等」、「日清戦争」を「日支戦争」、と読み替えれば、そのまま通りますね。(太田)
これはつまるところ、支那人は欧米諸国に対して考えたほど、十分な注意を以て日本を観察しなかった結果であ<る。>・・・
⇒日支戦争は、中国国民党がドイツ(ファシズム)、中国共産党がロシア(スターリン主義)、を模範とし、日本(日本型政治経済体制)に目を向けなかった結果起こったことと比定されますね。(太田)
日清戦争で大に懲りれば善かったのであるが、日清戦争は李鴻章の失敗で、支那の失敗ではないという誤った観察から、またとうとう北清事変を惹き起さしめた。・・・
<同事変の惨めな終息後、>支那もすっかりその弱点を自ら理解すべき位置に至った。・・・
西欧の盛んな所以、日本の盛んになった所以を考え、これは<行うべきは>文事改革であって、<洋務運動のような、>武事の改革ではないということを考えた結果、立憲政治論というものが清末に盛んになって来たのである。・・・
<こうして、>西洋文化に倣うには、支那の社会組織を根底から改革せなければならぬということを考えるようになったものの、<支那の>若い人は支那の歴史も知らず、自分の国の弊害がどういう点から来ておるということも知らず、ただ西洋の翻訳的政治を行わんとするのみである。・・・
⇒内藤はそこまでの考えには至っていなかったと思われるところ、私に言わせれば、支那の弊害は人々の阿Q性、すなわち、非人間主義性、にあるので、自らの人間主義化を図る、その上で、人間主義に立脚し、イギリスと一部欧州の政治経済制度を取り入れたところの、日本の政治経済体制・・やがて成熟して日本型政治経済体制となった・・を導入する、つまりは、日本の総体の継受を図ることを、当時、支那の官民が決意すること、が最も望ましかったのです。
それから約半世紀後に、トウ小平の下で支那はようやくそれを決意し、現在に至っているわけです。(太田)
<また、>今日の支那政治家は、・・・真面目に国を改革しようという李鴻章時代の政治家の気概を持っておらぬ・・・
<彼らは、>李鴻章や袁世凱時代までの政治家のごとく、外国人ないしは日本人のいかなる点に優秀な能力があり、いかなる点に恐るべき潜在力が籠っているかということを理解せない。・・・
一方においては日本も日清戦争前よりは不真面目で、悪い傾向を十分に持っている。今日においては誤った一種の心理から、本国の軍閥を憎む感情と、日本国家の信用を維持する正当な手段に対する考えとが混同され、何処に日本国論の帰着点があるのか判らないようになっている・・・
⇒支那は科挙官僚を失い、日本は武士を失ったにもかかわらず、双方とも、新たなエリート層創出に失敗した、ということです。(太田)
外交官<は、>・・・支那問題に対する考え<は、>米国人に叱られるか、賞められるかということを第一に考えている。いかに米国が世界に跋扈している世の中であっても、米国は米国の国論から考え、米国のなし得べき程度から考え、いかに日本に圧迫を加えるかということにも限度があるものである。・・・
⇒戦後日本の米事大主義的買弁外務官僚の原型を見る思いがします。(太田)
<すなわち、>日本がどうしても擲ち得ない、国力を賭してもやるという問題に触れたなら、米国は戦争をするつもりで日本を圧迫するというところまで、なし得られるかどうかは疑問である。」(261、263~267)
⇒内藤もまた、米国が人種主義的な帝国主義的対外政策を行う国であって、国益を踏まえた現実主義的対外政策を行うことができるような国ではないことが分かっていなかったわけです。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その18)
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