太田述正コラム#7738(2015.6.20)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その20)>
「今ここに支那に思わざる事件が起り、列国が共同の態度でそれに当らなければならぬ時があったとしても、自国にとって共同の態度が必要である間は列国と協調を保って行くであろうが、しかしその必要が去ればいつでも協調から脱退するのは米国であ<る。>・・・
⇒米国の軽躁かつエゴイスティックな対支外交を的確にとらえている点は内藤に敬意を表したいと思います。(太田)
<そもそも、米国のみならず、>今日列国の支那に対する関係は、各々自分だけは「善い子」になって、そして他国の位置はなるべく悪くせられ得る程度において、協調を維持して行こうという勝手な方針である。・・・
<結局、>今日では有力な外国の共同ということが全く望みな<いのであって>、支那にも騒乱を制限して支那人の安全を企望する・・・劉坤一<(注27)>や張之洞<(コラム#752、4946、6563、6789、7678、7734)>の・・・ような政治家もな<い以上、なおさらである。>」(269~270)
(注27)1830~1902年。「清末の軍人・官僚。・・・曽国藩・左宗棠の死後、張之洞と共に後期の洋務運動を指導した。・・・湖南省新寧出身。廩生(国から学資を給付される生員)<出身。>」太平天国の乱、日清戦争で戦う。義和団の乱の時には列強との戦いを拒否。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%9D%A4%E4%B8%80
ちなみに、「生員(せいいん)とは、中国明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得たもののことをいう。生員となったものは、府学・県学などに配属される。また、秀才と美称され、実質的に士大夫の仲間入りをしたことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%93%A1
「郷試(きょうし)は、中国古代で行われた科挙の中の地方試験である。・・・明・清代では3年に一度、・・・8月に省城で行われた。・・・合格者を挙人といい、首席合格者を解元といった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E8%A9%A6
「英国の商売は昔のごとく買弁本位であって、支那の内地に深入りする必要がない、米国はまだ支那の内地に深入りして商売するほど進んだ態度をもとっておらぬ。つまり支那内地の不安のために、最も影響を受けるのは日本であって、支那との関係の破裂ということが、去年の排日<(注28)>のごとく人為的であっても、あるいは他の原因で、どうしても起こらなければならぬ自然的のものであっても、結局は日本からまず破裂せなければならぬものであることが知れる。
(注28)1923年9月1日の「関東大震災<直後の>・・・9月3日・・・南葛飾郡大島町(現・江東区)<で>・・・軍、警察、青年団が・・・200人ばかりの支那人を・・・片はしから・・・虐殺し<た。>・・・<その後、>大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数はぜんぶで300人以上と見られる。8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったことで、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変した。」
http://tokyo1923-2013.blogspot.jp/2013/09/1923933.html
このことを指していると思われる。
それは日清戦争以前のごとく、支那に対する他の国際関係は平和であっても、単に日本との関係から破裂し始めたと同様であるが、日本が今までの理由なき隠忍の態度を改めて、破裂を覚悟したということになった時において、他の国がこれを抑え得るかどうか。・・・
⇒このあたりも、内藤の予言者的才能を感じさせます。(太田)
日本の国論が産児制限論にでも一致せない以上は、この過剰人口の問題はいつでも世界に向かって唱え得べき権利があるのである。その点は多数の植民地を持っておる英国とか、本国で人口問題に苦しまない米国などとは全く違ったものである。」(270~271)
⇒こういった記述を読んで、戦前の日本の対外戦略は、人口問題の移民による解決を目論むものであった、的な早とちりをする日本人がいるようです。
http://ameblo.jp/karate246/entry-11224714641.html
しかし、「近代日本人の海外移民は、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった<ため>、この時期の移民にはおおむね国籍の離脱・変更といった行為が伴っていない」けれども、台湾、朝鮮半島、南洋諸島への移住や「満州国への移住<は、>・・・日本領地内の移動」に近い感覚で行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA
、ということに過ぎないのであって、およそ、出稼ぎの奨励(?)などといったものが当時の日本の対外戦略の核心、いや、柱の一つであったはずがないのです。
また、満州への移住の活発化は、当然のことながら、1931年の満州事変以降のことですが、帝国陸軍が、東北地方の経済的窮状を背景に、東北地方の人々の、(関東軍の藩屏になってくれることを期待して(?))満州移住を求め始めたのは、ようやく1935年になってからであったところ、1937年に勃発した日支戦争が長期化するにつれて、東北地方を中心とする日本の人口過剰は、むしろ、兵力源として歓迎されるようになり、国策としての満州への移住は線香花火に終わった、という経過を辿るのです。
http://seikeisi.ssoj.info/sm13_kawauti.pdf
私が強い不満を覚えるのは、内藤が、日本の人口問題に言及しながら、この本の中の「新支那論」の前書きを彼が書いた7月5日の直前の7月1日に米国で施行された、いわゆる排日移民法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
に全く触れていない点です。
これは、当時皇太子であった後の昭和天皇が、「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである」(『昭和天皇独白録』)と、日米戦争の遠因としたところの、
http://ameblo.jp/karate246/entry-11224714641.html 前掲
当時の日本人に米国に対する憤激を呼び起こした大事件であったというのに・・。
ロシアのスターリン主義、及び、米国の人種主義、の日本にとっての脅威についての内藤の鈍感さには目を覆わしめるものがあります。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その20)
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